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【映画感想】『怪物』を見て生まれた祈り

2023/6/7公開直後に書いたものです。
その後『花束みたいな恋をした』も見ました。よかった。

是枝裕和監督、坂元裕二脚本の映画『怪物』を見てきた。
ネタバレ感想なので、ネタバレ嫌な方は見ないでください。
見た後で読んでください。
あと自分も誤読してるかもしれんから嘘情報混じってるかも。
以上の注意書きを見て、わざわざ記事読んだ人のクレームは受け付けませんのでよろしく。

まず初めに。
自分が是枝監督を認識したのは1995年『幻の光』。おもしろい映画を作る人だなと思った。
そのあと見たのが柳楽優弥くんがパルムドールを取って話題になった『誰も知らない』(2004)。
柳楽くんの透明な美しさと、身勝手な親の醜悪さの対比が見事で、好きになった。柳楽くんはその後いろいろあったけれども、どうやら幸せになってくれているようでご活躍が嬉しい。
そしてその次がこの『怪物』だから、あまり熱心な是枝ファンとは言えない。『そして父になる』『万引き家族』も気になるが、あまり熱心に映画館に足を運ぶタイプではない怠惰な自分はそれらの作品をサブスクですら検索していない。その程度の興味。
あとはまあとても大好きな映画監督である西川美和監督と仲いいとか、それくらいの情報。

なのに今回の映画を見に行こうと決めたのは、ひとえに脚本が坂元裕二さんだったから。
坂元裕二さんといえば、フジテレビで数々の人気テレビドラマを書いた名脚本家だ。
しかし自分はバブル全盛期のトレンディドラマがとにかく大嫌いだった。『東京ラブストーリー』なんて気持ち悪くて反吐がでそうだった。なので脚本家が誰かも知らなかった。
その気持ちが変わったのが、2010年の『Mother』、2011年の『それでも、生きてゆく』だった。
何だこれ。なんでこんな話をテレビドラマでやるんだ。テレビドラマって扇情的で軽薄で通俗的でマジョリティのもので、マイノリティや苦しんでいる人のものではない。
つまり、「自分」には必要ない、関係ない、Not for meな創作群。そういう印象を持っていた。
自分は犯罪被害者でも犯罪加害者でもない。
自分とはまったく関係ないはずのストーリーに引き込まれて、話の中に「自分」を見た。
とくに『それ生き』の大竹しのぶさんの演技が本物にしか見えないくらいリアルだった。
それから、坂元裕二さんの作品を気にするようになった。
いろいろ作品はあるが、夫婦のディスコミュニケーションを描いた『最高の離婚』シリーズが特に好きだ。
天真爛漫なユカとコミュ障(おそらくアスペルガー気味)の濱崎が坂元節と呼ばれるセリフを応酬しながら進むストーリーは、いくらコミュニケーションしようとしてもわかりあえないこと、でもそれでも手を伸ばすことをやめないことを描いていて、とても好感が持てた。
いろいろな問題を抱える女性たちのシスターフッドを描いた『問題のあるレストラン』、地方出身者の都会でのすれ違いを描いた『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』、バラバラの4人の共同生活をミステリ仕立てに描いた『カルテット』は大好きだ。
あ、でも『大豆田とわ子と三人の元夫』はついていけんかった。途中で見なくなった。改めて見たい。
『花束みたいな恋をした』は見たい見たいと思いながら、まだ見てない。
どれも、ディスコミュとそれを越えてのコミュ欲、どうしても人はひとりでは生きられないんだというある意味ありふれているかもしれないが、私にとっては一番大事なテーマを、それを一見そうは思えない遠くのところから石を投げて最終的に当たる、みたいな話を書いてくれる作家さんだと思っている。
自分は螺旋階段をおりていくように物語の深奥に近づいていくような創作作品(映像でも小説でも)が好きなので、是枝監督とタッグを組む、と聞いて、これは見に行かねばナーと思っていた。
放映開始すぐに、創作作品に対する審美眼がすぐれているフォロワーさん(坂元裕二さん好き)がさっそく見にいってらして、「これはネタバレなしに早めに見て欲しい」と言っていたので、じゃあ早めに行かなきゃな、と思い見に行った。
カンヌで脚本賞を取ったこと、クィア・パルム賞を取ったことはどうネタバレを避けようとしても耳に入ってきて、するとおそらくこういう話なのだろうなあというのは何となく想像がついた。
「派手髪の考察系YouTuber」こと大島育宙さんが褒めていたのもあり、やっぱりこれは早めに見ておいてよかったなと思う。

正直、あらすじはいらんかなと思うので、以下感想。
はじめの展開。
これは母視点で見たらものっすごいささる映画だと思う。イジメ・理不尽な学校の対応・いつのまにか手の内にいた子どもが変容していく恐怖。でも思い出したら小学校五年生ってもうかなり大人だった。大好きだからこそ親に言えない悩み。思い出せる自分の中の思い出と絡みつくように、物語は進む。
それが反転していく。
教師保利はややアスペルガー気味(彼女との対話で多少わかる)で、一般の男が持つ程度のマッチョ思想を普通に持ち合わせているが、おそらく大多数の生徒からは好かれているであろうただの青年だった(保利は『最高の離婚』の濱崎に近いキャラだと思う)。
母から見れば真実を話そうとしない教師に見えるが、保利から見れば、自分は嘘などひとつもついていないし、たくさんいる生徒にそれぞれ寄り添っていたはずなのに、他の教師からも厄介事扱いされ、スケープゴートにされる。しかしかれは子どもたちの異変に「気づける」大人だった。
そしてもう一度物語は変調する。
校長の目から描かれるかと思いきや、視点は少年たちの片割れである湊の視点に移る。
クラスメイトからいじめられている中性的な少年依里に、湊は少しずつ少しずつ惹かれていく。そして二人は草原の中を走り、廃電車のなかで蜜月を過ごす。親やクラスメイトから外れたとしても「しあわせ」な時間。
とくに、依里のキャラクターがものすごい。
ファム・ファタールのように(あえてオム・ファタールとは書かない)湊の手を取り、深部へと誘う。いじめられていることも、虐待を受けていることも(そしておそらく自分の性的傾向にも)気づいているが、それらをすべて受け入れながら、ようやく出会った湊を誘い、かれとの美しい時間を手に入れる。それは幼いかれが必死で行った稚い誘惑なのだと思う。イジメにも笑って返すかれの達観ぶりから見せる大人びた顔とは逆に、無邪気な色気は幼く、痛々しかったように感じた。
この展開をクィアだと呼ぶのは簡単だけれども、「LGBTQ映画だけの映画ではない」という炎上してしまった監督の言葉は正しいと思う。
誰もが体験したとは言えないかもしれないが、まだ性的なことを知らず、自分が何なのかも知らない頃、それでも徐々に生まれてくる自分の内なる欲望に怯えていたあの頃を覚えている人にとっては、相手が異性であろうが、同性であろうが、「同じ」なのだ。
人を好きな気持ちを告白された校長は(おそらくその相手に感づいていながら)、湊に「しあわせ」について語る。そのときの戸惑ったような、しかし吹っ切れたようにも見える湊の表情は言葉から何かを受け取ったのだとわかる。第一パートでは無表情で保身しか考えず、計算高いバケモノのように見えた校長は、身内の死に傷ついたひとりの女性で、きちんとした教師だった。
この映画にはいろいろな要素があり、一部だけで語ることは難しい。
母からの祈りは呪いになり、青年は教師という役割に振り回され、子どもたちはただ楽園を求める。
イジメに見えた片足の靴の答えが、二人の少年の愛の交歓の証であったことがわかったときはつい泣いてしまった。
おそらく、映画の中では悪者に見える、学歴への歪んだコンプレックスとマッチョ思想を持ち、DVをしている依里の父にも、消しゴムかけをいつまでもやめない強迫性障害的な側面をもつ眼鏡のいじめっ子にも、BL本を手にしてかれらの物語に萌えつつ嘘をついてしまうクラスメイトの少女にも、それぞれの人物からしか見えない世界があるのだろう(だからといって暴力やイジメが許されるわけではないのは、かれらが物語の視点にはなり得ないというところからわかる)。
ラスト。
物語的にかれらは結局どうなったのだろう。
かれらは死んだ? 生き残った? その後彼らはどうなる?
いろんな疑問は解消されずに終わる。
定石通りに解釈すれば、ラストの美しすぎる世界は死後の世界のイメージなのかもしれない。一方で、気絶か眠るかして、かれらが見た、ふたりの夢かと思えばそれもあり得る。
二人が無事助けられたかどうかは判然としない。
しかし、個人的な意見と願望を言えば、彼ら二人がただ死んだとは、私は思いたくない。それはとても美しすぎて、美しすぎて、嘘っぽい。
あの母なら、あの教師なら、あの校長なら、たとえあの二人がその後クィアな世界で生きざるを得ない青年になったとしても、受け入れてくれるのではないかと、そう思うからだ。
彼らと少年の間に、齟齬はあっても、断絶はない。必死に叫ぶ母の、泥をかき分ける教師の、ともに楽器を吹いてくれる校長の、それぞれの姿には、まだまだ希望が感じられる。
意外に二人ともしれっと普通に生きていて、そういえばそんなこともあったねと抱きあって笑うカップルになっていて欲しいなと思うのである。

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