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読書記録|明智憲三郎『明智家の末裔たち』

読了日:2023年10月15日

 『光秀からの遺言 本能寺の変 436年後の発見』の後に、同じ著者の『明智家の末裔たち』を読んだ。
 まず、明智憲三郎氏の研究熱心さに脱帽する。御先祖である明智光秀の真の姿を探り、この結論に辿り着くまでに、古い文献を読み、資料をくまなく漁り、検証し…これまでいったいどれほどの時間を費やしたのだろうか。果ては光秀の末裔それぞれの足跡までも追い、今では明智氏同様に「自分は明智光秀の子孫である」という方々にも会いに行きヒアリングをしたり、明智光秀の血を絶やさぬよう、そして乗り出したばかりのその研究を継続させるため、子孫たちによる会も発足されている。とてつもない労力だ。

 世界史、日本史、戦史などでは、今まで語られてきたことは実は間違っていて、本当はこうだった、もしくはこうではないか?…などと真実が明かされたり、これまでの通説を覆すような発信がたまにあるが、その際にいつもついてまわる問題が、歴史研究家による阻止やソーシャルメディア上などで”叩く”行為をしたり誹謗中傷を浴びせる者の存在だ。
 数々の確証が取れている事実であっても、サンクコストの呪縛なのかとにかく新たな説を認めない、認めたくないという人種がいる。正確さを追求する研究をする者を、今までの常識を覆す可能性を生む邪魔者として彼らは拒む。そうしなければ自分のポジションが危うくなるからだ。今回、『光秀からの遺言 本能寺の変 436年後の発見』『明智家の末裔たち』を読んでそこのことを強く感じた。

 特筆すべきは、豊臣秀吉が自身の活躍を太田牛一に書かせた『大かうさまくんきのうち』と、江戸時代中期に書かれた作者不明の『明智軍記』についてだ。これらの書物は事実を脚色したり、または創作を足したりした書物だ。元号が明治に変わった頃、明治帝がそれまで荒廃していた秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)を再興した。それはなぜか?
 織田信長は非道な天下人のイメージを持たれているが、実は豊臣秀吉も信長と変わらないようなことをしていたし、それほど愛されキャラではなかったはずだ。だから徳川家康が天下を取った後、荒廃していったのだろう。もしも民衆に愛されていたなら秀吉を慕う人々によって豊国神社が保たれていてもおかしくはない。が、事実、参拝に訪れる者も全くいなくなるほどの有様だった。
 それがなぜ、明治帝によって再考されたのか。朝鮮出兵を諮った秀吉の姿は、海外に追いつけ追い越せだった明治の時世とマッチしていたのだ。そう明智氏は考察する。これは私としても合点がいく内容だ。
 実際の朝鮮出兵はどうだったかというと、日本から派遣した者は1/3が戦ではなく餓死や凍死・病死。 朝鮮側は民衆までも大量殺戮された。というのも、初めは自分の成果を秀吉に報告するため兵士の首を日本へ送っていたが、嵩張るので鼻や耳で良しとなったからである。 戦国時代は取った首が本当にその者なのか否かを検証する”首実験”をするが、鼻耳なら誰かわからず、大将の鼻や耳ではなくてもバレないということで、自分の評価を上げるために戦士以外の男性、そして女子供も容赦無く殺し、鼻や耳を削ぎ落とし、塩漬けにして日本へ送った。こんな惨たらしいことが実際に行われていた。その負の部分は白い布をかけて隠され、明治の日清・日露戦争の頃、日本の大陸への進出を盛り上げるため、朝鮮出兵をした秀吉がもて囃されることとなったのだ。当時の小学校歌にも秀吉を主人公に国内統一と挑戦侵略を謳歌するものがある。当時の政治に秀吉が利用され、それにより現代でも秀吉に対する好意的なイメージが残っているのである。つまり、秀吉の負の部分位は現代でもあまりフォーカスされていない。
 その秀吉光秀を討伐した後に、秀吉の御伽衆に書かせた『惟任退治記』。これも秀吉をヒーローとして持ち上げた”軍記物”(戦を材料とし興味を惹くよう事実と空想を混じえて書かれた小説)ではあるが、現代の秀吉像の要素にもなっている。
 この秀吉の”自分を良く見せるための活動”が事実とは違っていても事実とされており、そのことがわかっていても一般的な歴史修正はなされない。いったんそれを突き通してしまったものを今更変えられない、という心理が全体的に広がっている。日本人の民族的習性でもあるのかもしれない。(山本七平『「空気」の研究』参照)
 上記の秀吉に関する部分は長い歴史における一例だが、光秀もまたそれに対極する一例で、光秀の場合は約400年もの間、ヒーロー役の秀吉に対しヒール役をやらされてきた。更にその子孫は明るみを避け、「明智」という名前を隠し、現代まで血を繋いできた。ここらでそろそろ光秀の汚名を濯いでも良いのではないだろうか。

 光秀に関する本の感想なのに内容が秀吉に寄ってしまったが、光秀の誤解をわかりやすくするためには秀吉は持ってこいの存在である。

 2019年、京都の東山三条白川筋にある、明智光秀公首塚。ここが私が「光秀は本当は家臣などに慕われていた武将なのではないか?」と謀反者光秀のイメージを改めるきっかけとなった場所だが、偶然にも著者の明智氏のご先祖の明田利右衛門さんが(明智の子孫であることを隠すため、明田に改名している)譲り受けた光秀のお墓だったことが本書でわかった。単なる偶然ではあるが、この本に帰結するとは思いもよらなかった。本書はが発行されたのも2019年。これも単なる偶然。しかし、私も光秀に何かご縁があったら面白いなぁと思う。
 ちなみに(誰も求めていない情報だが)私の母方は畠山氏なので、もしかしたらご先祖が光秀と近いところにいた者かもしれない。
 畠山氏は武家・士族だった日本の氏族で、桓武平氏系と清和源氏系の2家系がある。前者は秩父氏一族で平安時代末から鎌倉時代初期の豪族で北条氏に滅ぼされた。後者は足利氏一族である。光秀は足利義昭の側近だったこともあるのだ。
 姓は伏せるが父方は平家の落人らしく、現在の広島県に落ち延びた子孫で、その苗字を辿ると戦国期に小早川氏に仕えていた人物がいて、小早川家断絶後は浪人し、大阪夏の陣で秀吉側として参戦している。父がもしこの人物の末裔だとしたら、光秀寄りと秀吉寄りの子孫が結ばれて私が生まれた、ということになる。もしそうであれば感慨深い。
 この本をきっかけに、また自分のルーツを深く探ってみたくなった。

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