最終電車の車内に子犬が

高瀬 甚太
 
 梅田から出る最終電車は午前0時24分、ようやくのこと、飛び乗って一息ついた。
 平日の最終とあって、乗客の数はそれほど多くなく、各駅に停まる電車は次々と人を吐き出して行き、とうとう車両に三人ほどの乗客が残るだけになってしまった。
 木枯らしの吹く季節である。雪がちらほらと見え隠れして、夜半になると急激に冷え込みが増した。ウトウトとし始めた矢先、車掌に声をかけられた。
 「こういう動物を電車に持ちこまれると困りますが……」
 ハッとして隣を見ると、いかにも慣れた様子で、私に甘えるようにして子犬が眠っている。
 「この犬は私の犬ではありません」
 否定したが、車掌は、言い訳は聞かないと言った調子で私に釘をさす。
 「今回は見逃します。でも次回からはやめてくださいね。ボックスに入れるか、方法を講じて乗車してください」
 反論しても通じないと思った私は、仕方なく首を振って、わかりましたと答えた。
 いつの間に私のそばにやって来たのだろうか、子犬はまだ眠っていた。私の膝に頭を乗せた子犬は、両手の平で覆い尽くせるほどに小さかった。多分、雑種なのだろう。犬種のはっきりした体型でも顔でもなかった。それでもやはり子犬は可愛い。
 生まれてまだ間もない感じの子犬を抱き上げた私は、乗車している客の飼い犬かもしれないと思い、犬を抱いて客車を歩いた。すべての車両を歩いてみたが、どの客も反応しなかった。
 このままこの犬を連れて帰るわけにはいかないと思った私は、駅員に相談しようと思い、電車を降りた改札口で駅員に、この犬を電車の中で拾ったのですが、と伝えた。
 駅員は、しごく簡単に、交番へでもお届けください、と眠たそうな目を擦って答えた。
 私の住むマンションは、ペットを飼うことを禁止されている。特に管理人はペットに厳しく、常に目を光らせていて、内緒で飼っている者を見つけた時は、ペットを捨てさせるか、退去を命じるか、厳しい態度で出ることで知られている。
 困った私は、駅を出たところで、抱いていた子犬を放した。かわいそうだが仕方がない。私は足早にその場を去り、自宅であるマンションを目指した。駅から自宅まで7分ほどかかる。住宅地を通り抜けた先にある十五階建てのマンションが私の住まいだ。暗く静かな夜道を歩いていると、ハアハアといった息遣いと土を蹴る小さな足音が聞こえた。振り返ると、先ほどの子犬が、私の後を追って走って来る。立ち止まると、私に向かって飛びついてきた。
 目のくりっとした愛嬌のある犬であった。両手の平に乗る大きさの子犬は、私に抱かれると大はしゃぎしてみせた。顔を近づけると、ペロペロと小さな舌で私の顔を舐める。なんて可愛い犬なんだ。――私は捨てることができなくなってしまった。
 深夜の時間帯だから管理人室は閉まっている。ともかく、今日はこのまま部屋へ運んで、明日、考えよう。そう思った私は、子犬を部屋へ運んだ。
 空腹な様子の子犬に私は、冷蔵庫から肉を取り出して油で炒め、細かく切って子犬が食べやすい形にして皿の上に乗せて与えた。子犬はそれをガツガツと食べた。子犬と一緒にバスに入った私は、ぬるめのお湯で子犬の体を洗ってやった。子犬は私の掌で目を細めた。
 ドライヤーで子犬を乾かすと、子犬は気持ちがよくなったのか、部屋の中を走り回った。
 子犬を座布団の上に寝かせ、その隣に布団を敷いて寝た。朝、目を覚ますと子犬は私の布団の中で寝ていた。いつの間に入ってきたのだろうか。子犬は私が目を覚ますと同時に目覚め、私の顔をベロベロと舐めはじめ、私の顔にその小さな体を乗せてきた。
 子犬はすっかり私になついてしまった。しかし、このままにしてはおけない。管理人に見つかると大変だ。そう思った私は、子犬をどうするか、考えた。
 捨てると子犬は、保健所に連れて行かれ、抹殺されてしまう。誰か、飼ってくれる人がいたらいいのだが、すぐには思い付かない。事務所に連れて行くという方法もあるが、事務所も確かペット厳禁だった。どうすればいいのだろう――。
 考えがまとまらないまま、私は出勤の準備をはじめた。私の様子を見て、子犬もはしゃぎだした。自分も一緒に連れて行ってもらえると思ったのだろう。だが、事務所に連れて行くわけにはいかない。そう思った私は、子犬に言い聞かせた。
 「いいかい。私が帰るまでこの部屋でじっとしているんだぞ」
 子犬はポカンとした表情で私を見ている。そのあどけない顔がたまらなく可愛かった。
 扉を閉めようとすると、扉の向こう側でクゥ~ン、クゥ~ンと子犬の寂しそうな声が聞こえた。その日、一日、私は子犬のことが気になって仕事が手につかなかった。
 その日は、ライターの林愛美が打ち合わせのために訪れる予定になっていた。林は、大の犬好きを公言している二四歳の女性で、彼女なら何か方策を考えてくれるかもしれない。そう思った私は彼女がやって来るのを待った。
 林は正午を過ぎた時間帯にやって来た。ライターとしては駆け出しの部類に入る女性だったが、感性豊かなその文章は、将来性を感じさせるものがあった。そのため、私はことあるごとに彼女を起用してきた。
 「食事はして来たか?」
 元気よくドアを開けて入って来た彼女に聞くと、彼女は、ちょっと困ったような顔をして、言った。
 「していませんが大丈夫です」
 正午を過ぎた時間でもあったので、私は、
 「時間はありますか? あれば、少し外へ出て食事をしよう。食べながらでも打ち合わせはできるから」
 と言って誘った。彼女は、「わかりました」と応え、「ありがとうございます!」と元気よく付け加えた。
 事務所から少し歩いたところに旧いお好み焼き店がある。戦前から続いている店だが、美味しいという評判は聞かない。お好み焼きが好きだという彼女のリクエストに応えてその店に入った。
 私は焼きそば定食を注文し、彼女は豚玉のお好み焼き定食を注文した。七十歳を少し超えたぐらいの老婆が慣れた手つきで焼きそばとお好み焼きをつくる。
 ひと通り、仕事の打ち合わせをした後、私は彼女に相談をした。
 「昨日の夜、終電車に乗っていたら、生まれて間もない子犬がいつの間にか、私のそばに引っ付いていてね。捨てようと思ったんだが、できなくて部屋へ連れ帰ったものの、うちのマンションはペット禁止だからね。管理人に見つかったら大変なことになる。一晩中、一緒にいると情が湧いてね。一応、部屋に置いているんだが、どうしたものか悩んでいる。何か、いい方法はないものだろうか?」
 彼女は目を輝かせて、
 「どんな犬ですか?」
 と聞いたが、私の見たところ、雑種のようだったのでそう答えた。
 「雑種となると貰い手が少なくなるんですが、一度、知り合いに聞いてみます。それまで編集長のところに預かっておいてもらっていいですか?」
 短期間だったら管理人の目もごまかせるだろう。そう考えた私は、林にお願いをした。
 「早い方がありがたいのだが、誰か貰って下さる人がいたらありがたい。よろしくお願いします」
 林は、できるだけ早く探します、と応えて事務所を出た。
 林を送りながら、私は考えた。どうしても解せないことがあった。昨夜、終電車になぜ、あの子犬がいたかということだ。誰かの飼い犬だとしたら、私が車内を回っている時、気が付いたはずだ。まさか、あの犬が勝手に車内に入り込んだとも思えない。あれこれ考えたが、どうしても理解できなかった。
 その日、私はいつもより少し早めに事務所を出た。子犬のことが気にかかっていたからだ。帰りにペットショップでドッグフードを買い、スーパーで牛乳など食品を買ってマンションに入る時、入口で管理人に会った。
 「井森さん、珍しく今日は早うおまんな」
 定年退職後、雇われたという管理人は、ひどく仕事熱心な人で、マンションの清掃はもちろん、住居者にも神経を配っていた。元からペットが嫌いらしく、住人がペットを飼っていないかどうかに対する警戒も人一倍強かった。ドッグフードが見つかってしまえば、大騒動になること間違いなしなので、見つからないようにスーパーで買った食品の下に隠していたが、鼻が利くのか、スーパーの袋を覗き見して、訝しげな視線を私に向けた。
 笑ってごまかし、這う這うの体でエレベーターに乗った私は、急いでドアを開けた。
 子犬が走り寄って来ると思い、開けたドアをすぐに閉めたが、子犬は、私が帰ったことに気付かないのか、迎えに来なかった。
 2DKの狭い部屋である。帰って来たことがすぐに気付きそうなものだが、子犬は姿を見せない。キッチンに荷物を置いて、部屋を見回したが、やはり子犬はどこにもいなかった。
 どうしたのだろうか。不安になった私は、トイレやバスを見て回り、部屋の隅々にまで注意したが、子犬は消えていた。
 今朝、部屋を出る前に用意しておいた子犬の餌はきれいになくなっていた。ベランダにも出てみたが、まさか窓を開けてベランダに出るはずもなく、消えてしまったとしか考えられない状況に呆然としてしまった。
 いったいどうしたというのだろうか――。
 わずか一晩であったが、子犬と過ごした感触がまだ私の肌に残っていた。子犬の愛らしい瞳とかわいい泣き声が奇妙なほどに懐かしく、私は、いないと確信してからもなお、子犬を探し続けていた。
 その夜、私は眠れぬ夜を過ごした。忽然と消えた子犬の不思議が頭を離れなかった。
 ふと、管理人を疑ってみた。子犬の鳴き声を聞いた管理人が、私の部屋を開けて子犬を見つけ出し、処分したのではないか――。だが、それならマンションの入り口で会った時、私にそのことを告げるはずだ。それにいくら管理人とはいえ、勝手に部屋に入るはずがない。
 もしかしたら私は夢を見たのではないか。終電車に乗っていて夢を見て――。だが、それもおかしかった。私は現実のこととしてすべてきれいに記憶している。
 翌日、私は林愛美に電話をした。子犬をもらってもらえるところを探してもらっていたが、それを断るためだった。
 「家に帰ると、子犬が消えていた」
 と話すと、林は驚いたが、少し間を置いて、
 ――その話、他でも聞いたことがあります。
 と言った。
 「他でも聞いた? 子犬が消える話をかい?」
 ――ええ、私の一学年上の先輩で、佐藤香澄という方なんですが、遅くなった会社の帰り、夜道を歩いていたら、背後から足音がして、振り返ると、掌に乗りそうなほどの子犬が追いかけて来ていたそうなのです。あまり可愛いので家に持ち帰って、食事をさせたり、風呂に入れたり、世話をしたそうなんです。ところが翌日、仕事に出て家に帰ると、どこを探しても子犬はいなかったそうです。
 「私とまるで一緒だ。それでその先輩にその後、変わったことは起きなかったかね?」
 ――さあ、その話を聞いてから後は会っていませんのでわからないんですけど。
 「申し訳ないが、すぐに連絡を取ってみてくれないか」
 ――連絡して折り返し、編集長に電話をします。
 そう言って林は電話を切った。
 たまたまなんかではない。こうした事例が生じた時、必ず何かが起きる。その予感がしていた。あの子犬は何かの前兆かも知れない。私にはそんな予感がしていた。
 林から電話がかかって来たのは10分後のことだった。
 ――編集長、先輩の佐藤さんですが、交通事故で亡くなっていました。
 悲痛な声を上げて林は言い、横断歩道を青で渡っていて、信号無視で飛ばしてきた車に轢かれて即死したと説明をした。
 やはり、と私は思った。急いで対処しなければならない。だが、どうやって――。
 
 翌日の夜、私は再び最終電車に乗った。そぼ降る雨のせいか、先日よりさらにこの日は乗客が少なかった。先日と同じ状況に身を置いて、子犬が現れるかどうか、試してみるつもりだった。先日と同じように乗客が次々と降りて行く。車内には誰の姿も見えない。
 「お客さん、電車の中にペットを持ち込まないでくださいね」
 隣を見ると、この間の子犬が私の膝で眠っている。車掌に謝って、子犬を抱いて電車を出た。駅を出たところで、私は手に抱いた子犬に話しかけた。
 「人間の生命には寿命というものがある。何人もそれを犯すことはできない。たとえお前が誰であっても」
 子犬はクリクリした目を私に向け、ペロペロと私の腕や手を舐めていたが、私の言葉が終わると同時にその動作を止めた。
 「お前の持つ呪いのすべてを私に話してほしい。私はお前の心を癒してやりたい。恨みや怒りを根に持って成仏できるはずがない」
 私は、私の命を賭して子犬に対していた。
 子犬は愛らしい動作のすべてを捨てて、私をみた。その目はすでに子犬の目ではなかった。炎にように燃え盛る恨みを秘めた目であった。
 「お前にわしを止められるか」
 「止めようとは思っていない。私にはそれほどの力がない。私は一介の編集長でそれ以外、何の能力も持たない。だからお前と戦おうなどとは端から思っていないし、お前をどうこうできるなど考えてはいない。ただ、お前の中にある憎悪を少しは癒すことができる。そのぐらいの力は持っている」
 子犬は、すでに子犬ではなくなっていた。得体の知れない物体が私の目の前に立っていた。
 「お前に私の何が理解できる。お前はわしによって近々命を失う運命にある。そんなお前がわしの心を癒すなど片腹痛いわい」
 得体の知れない物体は、人間には想像できない複雑な物体であった。私は、恐怖に身も心も震え、めまいを起こしそうなほどその迫力に追い詰められていた。
 「私は、あなたが子犬だった時、あなたをとても愛しく思った。わずか一晩だったが、あなたと過ごした夜、私は幸せだった。もう一度、可愛い子犬に戻ったあなたを見たい」
 その瞬間、私の脳裏を子犬の一生、そしてさまざまな動物たちの一生が巡った。
 人の手によっていとも簡単に捨てられ、命を失ったさまざまな動物たち――。
 目の前にいるのは、動物霊だった。人間のエゴによって生命を断たれたさまざまな動物たちの思いが一つのエネルギー体となって私の前に立っていたのだ。
 あの子犬も、捨てられ、さ迷っている間に電車に轢かれて命を失った、かわいそうな動物だった。終電車で、あるいは線路の近くで、人を誘い、死に追い込んでいた。猫や犬、兎もいたし、鳥もいた。
 私は、愛しさのあまり、得体の知れないものに、飛びつき、抱いた。畏れなどなかった。心の底から愛情を持って動物たちの死を憐れんだ。
 次の瞬間、得体の知れないものの姿がスッと消えた……、ように思えた。そして私もまた意識を失った。
 
 気が付くと病院のベッドの中だった。体中包帯だらけの私がいた。
 「私はどうかしましたか?」
 聞くと、ベッドのそばにいた看護師が呆れたような顔をして言った。
 「何も覚えてないのですか。あなたは、最終電車の走る線路に突っ立っているところを撥ねられたのですよ。これだけの怪我で済んだのは、奇跡というしかないわ」
 「最終電車の走る線路に立っていた?」
 「酔っぱらっていたのだと思うけど、いい加減にしないとね。でも、警察も救急隊も、医者の先生も驚いていたわ。なぜ、助かったのかって」
 「怪我はどんな感じなのですか?」
 「全治一週間、骨も折れてないし、頭も打ってない。奇跡よね、奇跡――」
 看護師は笑って私に言った。
 私にはまるで記憶がなかった。記憶に残っているのは、子犬の可愛いしぐさだけだった。
 
 病院を退院して、私はしばらく仕事を休んだ。気分的に仕事ができる状態ではなかったし、休んでしたいことがあった。
 川口慧眼和尚に連絡を取り、大阪で会うことになった。慧眼は旅の好きな男で、滋賀の劉王寺にいることが少なかった。だが、今回はたまたま劉王寺にいて、私の怪我を心配してくれていた。
 ホテルの喫茶店でいつもは会うのだが、この日は、大阪駅から少し外れたJR天満駅周辺で会った。天満駅の改札口は一つしかなく、待ち合わせるには便利だった。改札口を出てきた慧眼は、包帯姿の私を見て大げさに驚いてみせた。
 「そんな姿でよく歩けるものだな」
 と慧眼は感心したが、歩く分にはまったく支障がなかった。
 慧眼と一緒に酒を呑むなど珍しいことだった。居酒屋に入った私たちは、ビールで乾杯し、酒の肴を数品取った。
 酒を呑みながら、今回の一部始終を慧眼に話して聞かせた。私の話を聞いても慧眼は驚かなかった。
 「慧眼和尚、お願いがあるんだが――」
 私が話そうとするのを止めて、慧眼が言った。
 「動物たちの霊を癒してほしいと言うのだろう。わかった。場所は私の寺でいいか?」
 私に不服などなかった。その日、私たちはしとどに酒に酔い、日時を決めて別れた。
 
 慧眼和尚の寺で動物たちを慰霊する儀式を行ったのは、それから一週間後のことだ。果たして動物たちの霊は癒されただろうか。私は慧眼和尚と共に天に向かって念仏を唱えた。
 二週間後、しばらく休んだおかげでそのつけが回って来た。ようやく仕事を終えた私は最終電車に乗った。平日とあって乗客は多くなかった。私は疲れが出たのか、椅子に座るとそのままウトウトと眠ってしまった。
 「もし、お客さん」
 車掌の声がしたので飛び起きた。飛び起きて、あわてて隣を見た。子犬はいなかった。
 「終点です」
 車掌は早く下車するよう私を促した。
 乗り越してしまった――。ホームに佇む私に、冬の風が冷たかった。
〈了〉

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