あいちやんの変な癖

高瀬 甚太

 場末の立ち呑み屋「えびす亭」で喧嘩が始まった。
 「その言い方は何や! 訂正せんかい」
 「そっちこそ何や。えらそうにしやがって!」
 今まで仲よく呑んでいた二人が突然、喧嘩を始めるなどということは、立ち呑みの店では決して珍しいことではない。ただ、取っ組み合いの喧嘩まで発展することは少ない。近くにいる誰かが必ず仲裁に入るからだ。
 えびす亭の客の中でも酒癖の悪い人は少なくなかった。代表的なのが金属工場で働く立松信二と八百屋のさとしだ。この二人は酒さえ呑まなければ大人しくて人にもやさしいのだが、酒を一定以上呑むと決まって変身する。その変身ぶりがすさまじい。一人や二人の仲裁では追いつかなくて数人単位での仲裁になるのだ。だからマスターは、この二人には危険水域に近づいたら酒を一切出さないことにしている。
 男だけではない。女性にも酒癖の悪い人がいた。ただし、彼女の場合は喧嘩ではない。酒に酔うとめったやたらと人の足を蹴り始めるのだ。その蹴り方が半端ではなかった。蹴られた方の足が青煮えになってしまうほど強烈な蹴りなのだ。だから、彼女が酔い始めたら、そのことを知っている者は皆、彼女のそばを離れる。そんな困った癖のある女性の名前は里中あい子、通称あいちゃんと言った。

 その夜、阪神タイガースが久々に巨人に三連勝し、えびす亭の阪神ファンはみな気をよくしていた。機嫌が悪かったのは巨人ファンの道下さんだけだ。一人むっつりした顔で酒を呑んでいた。それを見た虎キチの島さんが、よせばいいのに道下さんをからかった。
 「道下さん、どないです? 観ましたか、阪神のあの怒涛の攻撃」
 「……」
 「いやあ、気持ちよろしおましたなあ。最終回のあのホームラン、胸がスーッとしましたわ」
 島さんの酒量は半端ではなかった。そのため、道下さんへの攻撃もしつこく辛辣なものになっていた。
 「今年は阪神がもらいましたよ、道下さん」
 「そやろか? 去年もそないなこと言うてて最後に泣いたの、どのチームでっか」
 業を煮やした道下さんが反撃に移った。
 「去年は去年、今年の阪神は違いまっせェ」
 「たまたまの三連勝や。次はそうはいきませんぜ」
 「いやいや、今年は多分、このままずっと負けまへんやろ。力の差が大きい」
 「それはこっちの言い分だ」
 喧嘩が始まった。
 その時、島さんも道下さんも気付いていなかった。二人の間にあいちゃんが一人静かに呑んでいたことを。二人が言い合いを始めると同時にあいちゃんの様子が急変した。
 「ギャーッ」
 島さんと道下さんが同時に悲鳴を上げた。周りで呑んでいた連中がドッと笑った。あいちゃんの「蹴り」が始まったと知ったからだ。島さんと道下さんは足を抱え、大慌てで店から出て行った。
 あいちゃんは万国博覧会の年に生まれたと店で話したことがある。年齢的には四十代半ばのはずだ。一度結婚したが離婚して、以来一人で暮らしていると寂しそうに話していたことも多くの人が耳にしている。
 数年前まで交際していた男性がいたようだが、どういう理由かわからないがうまくいかず、今は誰とも付き合っていないと笑って話した。
 そんなあいちゃんに興味を持っていたのがサブちゃんだ。サブちゃんは天満市場で働く四〇歳になる独身男性で、酒にはめっぽう強かった。
 あいちゃんの外見は決して悪くなく、美人とまではいえないが、一〇人並みぐらいの器量で、スタイルだって捨てたものではない。だからえびす亭の中にもファンがいるにはいたが、サブちゃんほど強烈にあいちゃんに恋心を抱いている者は少なかった。
 と言うのも、酒に酔った時のあいちゃんの蹴りまくる酒癖にほとんどの者が辟易していたからだ。ところがサブちゃんだけは違った。あいちゃんにどんなに強く蹴られても、何度蹴られても動じなかった。神経が通ってないのではと思うほど平気な顔であいちゃんの蹴りを澄ました顔で受ける。
 だからマスターは、あいちゃんのそばに必ずといっていいほどサブちゃんを置いた。
 サブちゃんは無類の口下手で照れ屋だった。あいちゃんを前にしても、黙って蹴りを受け続けているだけで何の進展もみられなかった。
 
 八百屋のサブちゃんの朝は早い。早朝から天満市場で働き、午後一時で一度仕事を終え、その後、喫茶店に入ったり、公園で昼寝をして過ごす。その日、サブちゃんは昼寝をするために近くの公園へ行った。
 「あら、サブちゃん」
 公園へ向かっている途中、サブちゃんは声をかけられた。驚いて振り向くと、笑顔のあいちゃんが目の前にいた。
 「やあ……」
 「サブちゃんはこの近くで働いているの?」
 「天満市場の八百屋で働いています」
 「そうなの。私もこの近くで働いているのよ」
 「どこですか?」
 「そこのスーパーでレジ打ちしてるの」
 あいちゃんは目の前に見えるスーパー「かのや」を指さした。
 あいちゃんは陽気な人だった。苦労したと聞いているが、あいちゃんの表情には暗い陰など微塵もなかった。あいちゃんは、サブちゃんがじっと黙って何も言わないものだから、
 「サブちゃん、それではごきげんよう」
 と言って、サブちゃんのそばから去って行った。
サブちゃんはあいちゃんの後姿を見つめながら、喫茶店に誘えばよかったなとか、もっと話をすればよかった……と後悔したが、後の祭りだった。公園で芝生に寝転がると、サブちゃんの網膜にあいちゃんの笑顔が浮かんだ。あいちゃんと一緒に過ごせたら幸せだろうなあと、一人者のサブちゃんはつぶやくように言って浅い眠りに入った。
 
 「今日はあいちゃん、来てないの?」
 昨日も一昨日も、今夜も、あいちゃんは店に姿を見せていない。心配になったサブちゃんがマスターに訊ねた。
 「風邪を引いたと聞いていたけど、よっぽどひどいんかなァ」
 マスターが顔を曇らせたので、それにつられてサブちゃんの表情も一層、深刻になった。
 「マスターは、あいちゃんの住んでるところ知りまへのか?」
 サブちゃんが訊ねるとマスターは首を振って「知りまへん」と答えた。
 その日、えびす亭を早々に切り上げたサブちゃんは、あいちゃんが働いているスーパー「かのや」に出かけることにした。もしかしたらスーパーには出ているかも知れない、そう思ったからだ。
 しかし、あいちゃんはいなかった。サブちゃんは意を決して、スーパーの責任者らしき人物に、あいちゃんの様子を尋ねてみることにした。
 「里中さんですか……。風邪で休んでいます。ああ、ご親戚の方ですか。お住まいは……ちょっと待ってくださいね。調べてきます」
 気のよさそうな五十年配の店長は、サブちゃんがあいちゃんのことを尋ねると、そう答えて、事務室の方へ向かった。
 スーパーは主婦で混雑していた。生鮮食料品の匂いがし、焼き鳥の匂いがした。そうだ、あいちゃんはお腹を空かしているかも知れない。何か買って行ってやろう。そう思っているところへ店長が戻って来た。
 「里中さんはこちらにお住まいです。里中さんにお会いになりましたら気を付けてくださいと言っておいてください」
 店長はサブちゃんに住所を書いた紙切れを渡すと、そのまま店の中の人混みに姿を消した。
 寿司のパックを2パック、ペットボトルのお茶を2本、ケーキを2個、篭の中に入れるとサブちゃんはレジに並んだ。
 あいちゃんの住まいはスーパーから歩いて十五分ほどの場所にあった。賑やかな通りを抜けて古い街並みを歩くと、少し外れた場所に旧式の二階建ての文化住宅があった。二階の一番端の部屋にあいちゃんの部屋があり、電灯が点いていた。どうやらあいちゃんはいるらしい。二階に上がり、部屋の戸を叩こうとして、サブちゃんはハッとした。女性一人の部屋に、顔見知りとはいえ、ほとんど話したことのない自分が訪ねて、果たしていいものだろうか、ストーカーのように思われたらどうしよう。そう思ったサブちゃんは、戸口に買って来た寿司とお茶、ケーキを置いて、二度ほどドアをノックした後、急いで下へ降りた。
 あいちゃんの住んでいる文化住宅から少し離れた場所に立ち、様子を窺っていると、ドアが開き、寝間着姿のあいちゃんがキョロキョロ辺りを見回しているのが見えた。やがてスーパーの袋に気付くと首を傾げながら部屋の中に消えた。
 翌日、サブちゃんはいつもより早い時間にえびす亭にいた。あいちゃんの勤めているスーパーに顔を出して、出勤しているかどうか確認したいと思いながらも途中であきらめてえびす亭に直行したのだ。
 昨日の今日だ。スーパーに顔を出すと、店長に会うかも知れないし、不審がられてもいけない。それよりもあいちゃんは体調さえよくなればえびす亭に顔を出すはずだ。それを待つことにしようと考えた。
 サブちゃんはえびす亭の常連だったが、特に親しくしている人はいなかった。いつも一人で寡黙に呑むのが性に合っていた。一時間ほど呑み、そろそろ店を出ようとしたところへあいちゃんが姿を現した。
 「あいちゃん、こっち」
 マスターがサブちゃんの隣にあいちゃんを誘導する。サブちゃんの隣に客がいたが、それを少し詰めさせてあいちゃんをサブちゃんの隣に立たせた。
 あいちゃんはサブちゃんの顔を見ると、笑顔で、
 「サブちゃん、昨日はありがとう」
 と言った。サブちゃんは面食らったような顔をして顔を赤くした。
 「昨日、来てくれたんでしょ。ドアをノックする音がして、誰かなと思ってドアを開けると、入口にうちのーパーの袋があった。誰が持ってきてくれたのか不思議だったけど、ずっと風邪で体調を悪くしていて食べていなかったからお寿司はありがたかったわ。今日、店で店長に昨日、誰か私を訪ねて来なかったかと尋ねると、一人来ましたと言うじゃない。人相、風体を聞くと、すぐにサブちゃんだとわかったわ。だってサブちゃん、八百屋のエプロンつけて訪ねているんだもの、丸わかりよ」
 あいちゃんはそう言って大笑いした。サブちゃんは照れ臭そうに腰の辺りを見た。そういえば時々、エプロンを付けたままにしていることがよくあった。昨日もそうだった。今日も付けたままだ。
 「おれ、生まれた時からずっと八百屋なんです。だから子供の頃からエプロンつけて、そのまま学校へ行って、先生に注意されたり、友だちに笑われたことが何度もありました。八百屋が大好きで……」
 寡黙なサブちゃんが語り始めたのであいちゃんだけでなく、マスターも周囲も驚いた。
 「サブちゃんの話聞くの私、初めて。もっと喋ってよ」
 「野菜や果物のことしかわからなくて。それ以外の知識なんてまるでないから、人に喋る内容がなくて……」
 それで寡黙にならざるを得なかったとサブちゃんは言った。
 「サブちゃん、私ね、野菜の話も果物の話も大好きよ。興味があるわ。もっと喋って聞かせてよ」
 あいちゃんが言った。サブちゃんは思わず嬉しくなって、顔をほころばせると、トマトについて語り始めた。
 「あいちゃんはトマトが好きですか? トマトの原産地は南アメリカのアンデス山脈でナス科ナス属の植物なんです。日本では、トマトのことを唐柿、赤茄子、蕃茄、小金瓜、珊瑚樹茄子などの呼び名があります。
 トマトにはアルカロイド配糖体(トマチン)が含まれ、色ではピンク系と赤系、緑系に大別されます。日本ではピンク系トマトが生食用として人気があり、赤系トマトは加工用に利用されることが多いとされています。トマトには八千種を超える品種があり、二本では一二〇種を超えるトマトが品種登録されています」
 サブちゃんのトマト解説はとめどがなかった。えびす亭の客の中にはサブちゃんの声すら聴いたことのない人が多かったものだから、突然のサブちゃんのトマト解説に驚いた客が少なくなかった。
 「サブちゃんて物知りだったのね」
 感心したようにあいちゃんが言うと、サブちゃんは照れながら、
 「野菜と果物のことしか知りませんが……」
 と恐縮して言った。
 その日、あいちゃんはサブちゃんに自分の過去を赤裸々に語った。なぜ、あいちゃんがサブちゃんに語る気になったのかわからなかったが、サブちゃんはあいちゃんの話を真剣に聞いた。
 「私、一度結婚したことがあるの。別れた理由は私の癖にあるの。おかしいでしょ」
 「癖?」
 あいちゃんに結婚歴があることは知っていたが別れた理由までは知っていなかった。その理由をあいちゃんは「癖」と言った。わけがわからなくてサブちゃんはあいちゃんに聞いた。
 「私、酔っぱらったら自分でもわからないまま、人の足を蹴る癖があるでしょ。私が酔うとみんな逃げて行くけど、サブちゃんだけはいつも平気よね。不思議な人だと思っていたけど……、それと同じ癖がもう一つあるの。私、好きになってその人を心から愛してしまうと、じっとしていられなくて、その人の腕をつねったり、足をつねったり、顔と言わず、体中、つねりまくる癖があるの。それも半端じゃないの。最初の結婚もそれが原因で別れたわ。しばらく一人でいたけれど、次に知り合った人も、私の癖に驚いて逃げてしまった。何とか治そうと努力したけれど、どんなに頑張っても好きになってしまうとすぐにその癖が顔を出して……」
 あいちゃんは、そう言って泣き笑いした。
 「おれは平気だよ」
 サブちゃんがあいちゃんを見つめて言った。
 「おれはあいちゃんにどんなに蹴られようと、つねられようと平気だよ」
 あいちゃんはサブちゃんの顔をしみじみ見つめて言った。
 「サブちゃんてマゾなの?」
 「わからへん……。でも、おれ、あいちゃん以外の人にそうされると多分、怒ってしまうと思う」
 「……変な人」
 それがきっかけになったのかどうか。えびす亭にまた一組、不思議なカップルが誕生した。
 やがてあいちゃんはスーパーを辞めて市場の中にあるサブちゃんの八百屋を手伝うようになり、二人はほどなく結婚式を挙げた。
 四〇代半ば同士の結婚式だから控えめにしたいとあいちゃんは言ったが、サブちゃんはせっかくだからと言って、小さなホテルの宴会場を借り切って盛大なパーティを催した。
 寡黙で八百屋一筋のサブちゃんにどうしてこれだけの人が、と招待されたマスターやえびす亭の客数人は驚いたようだが、実直で思いやりの深いサブちゃんが八百屋で培ってきた数十年の歴史が作った人脈だと知って、マスターは感動を隠し切れなかった。
 その後も二人は仲よく手をつないでえびす亭にやって来た。酔うと必ず喧嘩をする立松信二とさとしも、二人の前ではさすがに喧嘩を控えたという。
<了>


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