道頓堀川慕情

高瀬 甚太

     一

 「性悪女め、今度会ったらただではおかんぞ!」
 腹立ち紛れに手提げ鞄を地面に叩き付けると、山田隆は憤懣やるかたない様子で唾を吐き捨てた。
 ほんの一時間前のことだ。遅れに遅れていた仕事が片付き、上機嫌だった山田は一人でミナミの街へ繰り出すと、立ち呑み店で一杯ひっかけ、酔った勢いでもう一軒立ち寄ろうと、周防町通りをふらふらと歩いていた。
 「ご機嫌だね、おじさん」
 突然、声をかけられて山田は立ち止まった。暗闇の中に一人の女がいた。いや、女というよりも酔っぱらった山田の目には幼い少女のように見えた
 「おう、ご機嫌だよ。仕事が片付いたからな」
 呂律の回らない声で山田が女に言うと、
 「じゃあ、ご馳走してくれる?」
と女が言った。
 女の大きな瞳に吸い込まれるようにして、山田はゆっくり女に近づくと、いかにも幼くみえるその細い肩を抱いた。
 「ええぞ。わしと一緒に行こう。何が食べたい?」
 「お寿司」
 「よっしゃ、お寿司でもなんでも食べさせてやる」
 表情を和ませて山田が言った。
 「ねえちゃん、名前なんて言うんや?」
 ネオンが彩るイルミネーションの道を歩きながら山田が尋ねると、
 「陽菜」
 と、女はつぶやくような声で答えた。
 「陽菜ちゃんか。ええ名前やなあ」
 小柄な陽菜の肩を抱くようにして歩いていた山田が、酒臭い息を吐きながら陽菜の顔を覗き込む。幼女を連想させる容姿、小さな卵型の陽菜の顔の中央に黒い瞳がキラキラと輝いていた。山田は思わず生唾を呑み込んだ。
ミナミの夜の街には寿司屋が乱立している。どの店にするか、山田は少し迷った。いつもは安めの寿司店ののれんをくぐるのだが、陽菜の前で少しだけいい恰好をしたいという思いが山田に働いた。財布には八万円ほど現金が入っていた。足らなければカードもある。酔いに任せて山田は、高級寿司店ののれんをいかにも通い慣れた感じで潜り抜けた。
カウンターに座り、ビールを一本注文した山田は、
 「陽菜ちゃんはいくつなんや?」
 とぶしつけに聞いた。
 「十九歳です。後三か月で二十歳になります」
 陽菜は笑顔で答えた。四五歳の山田は、突き出た腹をたるませ、卑猥な表情を満面に湛えながら聞いた。
 「そうか、俺には十四、五にしか見えんがなあ……。ところでなんでわしに声をかけたんや?」
 陽菜は間髪を入れずに答えた。
 「おじさん、とてもやさしそうな人だったから」
 山田は顔をくしゃくしゃにして、陽菜の肩をわしづかみにした。
 「そうか、そうか。わしはとってもやさしいぞ」
 と言い、陽菜の耳元で、「ベッドの上でもやさしいぞ」と囁くように言った。
 コートを脱いだ陽菜は、小柄だが、胸元の大きさが目立つ立派な大人の女だった。陽菜の突き出した胸元を舌なめずりしながら無遠慮に覗き込む山田は、寿司が喉を通らないほど興奮していた。
 「そろそろ出ようか? 陽菜ちゃん」
 山田が陽菜の小さな耳に酒臭い息を吐きかけるようにして言った。一時も早くホテルに向かいたい山田は、急いでレジカウンターに向かい財布を開いた。
 金額を聞いた山田は一瞬、顔を青ざめさせ、思わず店員に問い返した。
 「五万五千円――?」
どうやったらこんな金額になるのか。一時間ほどの間に山田は二皿しか食べていない。逆に陽菜は十二皿の寿司を食べていた。しかも、そのほとんどが高価なものであった。
払い終えて店を出ると、外で待っているはずの陽菜がいなかった。
 どこかに隠れて待っているのでは、そう思って探し回ったが、見つからなかった。散々探し回って、ようやく山田は食い逃げされたことに気が付いた。
山田は、陽菜のせり出したバスト、きめの細かな白い肌を思い出し、憤懣やるかたない表情で「クソッ!」とネオン街の喧騒に負けないほどの大声を上げた。

     二

 ミナミの夜の街に出没する陽菜の存在は、その筋の者にはよく知られた存在だった。かわいくて、色気があって捕まえどころがない――。語る人にとってさまざまだったが、彼女は度々、姿、形を変えてミナミの街に出没していた。
 道頓堀川に面した喫茶店で働いていた菅井諄亮は、その夜、マスターの菅井幸一、つまり諄亮の叔父にあたるのだが、そのマスターが所要で出かけたため、一人で店に立っていた。営業時間は午前七時から午後十一時まで。諄亮は昼間、大学に通っていたため、朝は午前七時から午前九時までこの店で働き、夜も学校から帰宅すると、そのまま午後五時から十一時まで働いた。
 突然、大粒の雨が道路を濡らし始めた。閉店時間も迫っていたので、諄亮は看板の電気を消そうと表に出た。その時、それを待っていたかのように一人の女性が諄亮に尋ねた。
 「すみません、もうお終いですか」
 髪の毛も服もずぶ濡れになった女性がそこにいた。腕時計を見ると午後十時半を少し回っている。
 「いいですよ。どうぞお入りください」
 看板の電気をそのままにして、諄亮は女性を店内へ招き入れた。九時半まで満席だった店内は、十時を過ぎると人が途絶え、いつもはホステスでごった返す十時台の時間も突然の雨が影響してか、店内には客は一人もいなかった。
 「コーヒーいただけますか?」
 道頓堀を見渡す窓際に腰を下ろした女性は、濡れた髪を気にしながら諄亮に注文した。カウンターの奥から黄色いバスタオルを取り出した諄亮は、コーヒーと共に、それを女性の前に差し出した。
 「これ、どうぞ使ってください」
 女性に手渡すと、女性は笑顔でバスタオルを受け取り、明るい声でお礼を述べた。
 「ありがとう」
 肩まで伸びた茶髪に小さな顔、かわいい女性だな、と諄亮は思った。
 「道頓堀がこんなにきれいな街だったなんて私、初めて知りました」
 髪の毛を拭き終えた女性は、丁寧にバスタオルを折りたたむと諄亮に手渡しながら言った。
 「僕も初めてこの店の窓から道頓堀の街並みを見た時、感激しました。ああ、ここは大阪なんだ、と不思議な感動を覚えたことをよく覚えています」
 川面に映るネオン、夜が更けていくに従って冴えわたる街の風景、語りつくせない魅力が道頓堀にはあった。
 女性はコーヒーを口にし、静かに窓外の景色に見とれていたが、午後十一時になったところで突然、立ち上がった。
 「ごめんなさいね。そろそろ出ます。ありがとうございました」
 雨は止むことなく、さらにその雨足を鋭いものにしていた。
 「もう少し、様子を見られたらどうですか? 今が一番ひどい降りのようですから」
 窓ガラスに激しく打ち付ける雨を眺めながら諄亮が彼女を押しとどめた。
 一度席を立ちかけた女性だったが、諄亮の言葉に安心したのか、再び席に座り直した。
表の看板の電気を消した諄亮は、女性の前の席に座ると、自分の分と併せてもう一杯、女性に温かなコーヒーを差し出した。
女性は「ありがとう」と目を輝かせて再びお礼を言うと、諄亮に向かって、
 「アルバイトの方ですか?」
 と聞いた。
 「ええ、叔父がこの店のオーナーなのでお情けで雇ってもらっています」
 諄亮が笑って応えると、女性もつられて笑みを浮かべた。
 やがて雨は小止みになり、雨音を鈍らせて静かに止んだ。
 それに気付いた女性は、
 「ありがとうございました。おかげで助かりました」
 と諄亮に向かって丁寧に礼を述べると勘定を払うために立ちあがった。
 「また雨が降るかもしれません。この傘を持って帰ってください」
 店を出ようとする女性に諄亮は傘を差しだした。
「ありがとう。お借りします」
と、女性は言い、雨上がりの街へ傘を手に飛び出して行った。

     三

 諄亮は道頓堀に近い、大阪市中央区島之内のワンルームマンションに一人で住んでいた。諄亮の実家は大阪府池田市にあったが、大学に入学してからすぐに中央区の島之内に引っ越している。進学を巡って父との仲が険悪になり、家を飛び出すような形で引っ越したものだが、最初は気楽でいいと思えた一人住まいも、慣れてくると面倒で大変なことがわかった。特に諄亮のようにずぼらな人間には一人住まいは悲惨を極めた。後片付けをしない部屋の中はたちまちゴミの山と化し、一週間に一度の掃除では追いつかなくなっていた。
 諄亮の家は三代続いた医師の家系で、諄亮も医学部を受験するよう幼い頃から親に義務付けられていた。だが、いつの頃からか諄亮は医師になることを否定するようになり、大学進学を巡って父親とひと悶着起こした。父親の意見を無視して大阪の公立大学の文学部を受験した諄亮は、父親が指定した医大を受けなかったことで、父親と祖父の怒りを買い、家を出て独力で大学に通うようになった。その諄亮を助けたのが父の弟であった叔父、菅井幸一だった。叔父の経営する喫茶店で働くようになり、叔父の世話で現在の住まいに引っ越した。
 医師一筋で真面目な父とは違い、叔父、幸一は同じ兄弟と思えないほど性格が違っていた。
 そのため、諄亮の父と叔父の幸一は兄弟でありながらも親交が浅かった。だが、諄亮は叔父の幸一が子どもの頃から好きだった。父親の芽の届かないところで親交を重ねてきた諄亮は、困ったことがあるといつも父親には相談せずに幸一に相談をしてきた。
 進学にあたってもまず相談をしたのが幸一だった。幸一は、「自分の人生や。自分で決めたらええ」と言って、諄亮が公立大学の文学部に進むことを暗に勧め、その場合の対策も幸一が決めてくれた。
 ――雨の夜から一週間が経っていた。諄亮の様子がおかしいことに気付いた幸一は、
 「諄亮、おまえ、最近どないしたんや?」
 と、声をかけた。ぼんやりと窓の外を眺めていた諄亮は、マスターの幸一にいきなり声をかけられて驚いた。ちょっとした変化を見過ごさない叔父の鋭い観察力に諄亮はいつも感心しきりだが、この時だけは否定した。
 「どないもせえへん」
 諄亮が答えると、叔父はからかうような口調で言った。
 「なんやしらん。さっきからため息ばかりついて――。恋でもしたんか」
 「……」
 一度しか会っていない名前すら知らない女性に、諄亮はいつの間にか恋をしていた。気付いたのはつい最近のことだ。今日来るか、明日来るかと入口を見つめている自分がいた。それどころか、朝も昼も夜も四六時中、彼女のことばかりを考えている自分がいるのに気付いて呆れてしまった。
 沈黙する諄亮に、叔父はそれ以上、何も聞かなかった。
 「諄亮、わしがこの年になるまで独身でいるわけがわかるか?」
 諄亮は首を振った。恋多き叔父の噂をこれまで何度か耳にしたことがあった。しかし、詳しい話を知っているわけではなかった。諄亮の家では叔父は異端の人間で、家族から疎まれる存在だった。
 「大恋愛が成就しないと男は不幸になってしまう。わしがその典型や。もう少し努力しておけば――、あの時、気付いていたら――、後悔をしてもその時はもう遅い。結局、それが尾を引いて、わしは人を愛することに臆病になって未だに独身だ。諄亮も、わしみたいにならんように気を付けることや」
 数人の女性と交際しいていると噂のある、遊び人の叔父には似合わない言葉のように思えた。だが、その言葉に諄亮は叔父の知られざる一面を見た思いがした。
 店に時折訪ねてくる女性がいた。相生橋で「沙羅」というスナックを経営している光代というママだった。たいてい夕方頃やって来て、叔父と親しく話をして帰ることが多かった。三十代後半とおぼしきその女性は、和服のよく似合う美しい人だった。叔父との関係がどんなものであったか諄亮にはよくわからなかったが、単なる客とは思えず、一度、好奇心で叔父に訊ねたことがあるが、叔父は曖昧に言葉を濁してはっきりと答えなかった。

     四

 「マスター、どうしたの?」
 夕方の時間帯であった。いつものように店に入って来た「沙羅」のママ、光代は、店内に叔父がいないことを見届けた後、諄亮に聞いた。
 「朝方、電話があって風邪を引いたので休むと連絡がありました」
 諄亮が答えると、光代は、
 「風邪、ひどいみたいだった?」
 と心配げに聞いた。
 「熱があると言っていましたが……」
 諄亮の言葉を最後まで聞かないうちに光代は、コーヒーも飲まずに血相を変えて店を出て行った。
 マスターが休むと、諄亮が終日、店を切り盛りしなければならない。特にこの日は金曜日ということもあって忙しかった。ようやく一息つけたのが午後十時を過ぎた時間帯だった。食事もろくにしていなかった諄亮は、人が切れたのを見計らってサンドイッチを作り、口にした。そんなところへ客が入って来た。諄亮は食べかけのサンドイッチを皿に置いて立ちあがった。
 客は、先日、雨の日にやって来た女性だった。俄かに諄亮の胸がざわついた。
 女性は傘を諄亮に差し出すと、
 「先日はありがとうございました」
 と深々と礼をした。女性が以前と様子が違うことに諄亮は驚いた。何となく荒んだ感じが漂い、化粧も濃いめのものに変わっていた。
 「わざわざありがとうございます。よかったらコーヒーでもどうですか?」
 傘を手渡して立ち去ろうとする女性を引き留めるようにして諄亮が言うと、女性は一瞬戸惑った表情をみせたものの、素直に諄亮の言葉に従い、先日と同様の窓際の席に座った。
 諄亮は女性にコーヒーを出し、新しく作ったサンドイッチも併せてテーブルに置いた。
 「実は今日、マスターが休みで忙しくて食事ができなくて、今、食事をしていたところなんです。よかったらいかがですか?」
 女性は、サンドイッチを見ると目を輝かせた。空腹だったのだろう。諄亮にお礼を言うと無心に食べ始めた。
 諄亮はその夜、初めてその女性の名前を知った。女性は一色陽菜と言い、週に三日、宗右衛門町のクラブで働いていると言った。そのクラブは諄亮さえも知っているほど、ぼったくりで有名なクラブで、暴力団がバックにいると評判の悪いところだった。
 「この店、バイト募集していますか?」
 陽菜の問いかけに諄亮は驚いた。
 「どうして?」
 「募集していたら雇ってもらおうかなと思って――」
 「マスターに聞いてみるけど、きみのような人が来てくれたらそりゃあ助かるけど、バイト料はあまり高くないと思うよ」
 「一度、聞いてみて。私、明日、昼ごろ来るから」
 陽菜はそれだけ言うと、サンドイッチを食べ終え、コーヒーを余さず飲んで席を立った。
 「今日はお勘定、いいからね」
 諄亮が言うと、財布を手に払いかけた手を止めて、陽菜は笑顔で、
 「じゃぁ、明日」
 と言って、そのままネオンの中へ消えて行った。
 翌朝、マスターはいつも通り出勤してきた。午前九時に交代するのが常だが、この日はマスターの体調を気遣って、諄亮は九時を過ぎても交代せずに働いた。
 「諄亮、もういいぞ。風邪は治った」
 マスターは諄亮に交代を促したが、その顔色はまだ病人のものだった。
 「でも、まだ顔色がよくないですよ。ゆっくりしてください」
 諄亮の言葉にマスターは一瞬躊躇したようだったが、結局、素直に頷いて、カウンターの中の厨房に身を沈ませた。やはり体調はまだ元に戻っていないようだ。
 モーニングサービスの時間が過ぎると、店はようやく落ち着きを取り戻す。手が空いた諄亮は、マスターに陽菜のことを話し、面接してやってほしいと頼んだ。
 「バイトが一人いたら助かるが、雇ってもいつもあまり長続きしないからな」
 マスターが懸念するのも無理はなかった。場所柄、バイトを募集すれば人は集まるのだが、三か月続けばいい方で、短い時は三日もたずにやめていく。忙しいわりに時間給の安いことが原因だった。
 「まあ、諄亮が約束したのだったら会ってみるよ。時間給を聞けば驚いて来ないかもしれないが」
 陽菜は本当に来るのだろうか、諄亮はそれを心配した。だが、正午を過ぎてすぐの時間に約束通り陽菜はやって来た。濃い化粧は姿を消し、服装もジーンズに白いセーターとラフなものに変わっていた。
 マスターが陽菜と面談をしている間、諄亮は忙しく立ち働いた。正午から二時までの時間帯は女性客でよく込む。小さな喫茶店ではあったが一人で切り盛りするには無理があった。
 「手伝います」
 と言って、いつの間にかエプロンを付けた陽菜が諄亮に代わって客のオーダーを取り始めた。その手際の良さに諄亮は驚かされた。
 「雇うことにしたよ。面接早々、早速働いてくれている。いい娘じゃないか」
 マスターがタバコに火を点けながら諄亮に言った。
 「叔父さん、ありがとう」
 諄亮がマスターにお礼を言うと、マスターは諄亮の背中をポンと叩き、
 「ガンバレよ。わしのように後悔しないようにな」
 と言った。
 諄亮が陽菜に夢中になっていることを勘のいいマスターはすでに気付いていたようだ。
 
   五

 午後二時を過ぎると、客足は少し途絶える。しかし、それもつかの間で再び来店客で賑わう。その繰り返しの中でも陽菜の様子は一向に変わらなかった。ハキハキとして明るく、テキパキと客の間を行き交う。
 諄亮は楽しかった。あれほど会いたいと切望して止まなかった陽菜が今、自分と同じ職場にいる。陽菜を眺めているだけで諄亮の胸は自然に熱くなり、鼓動を速めた。しかし、諄亮はこの時、まだ、陽菜のことを何も知っていなかった。陽菜がどんな過去を抱え、どんな気持ちでこの喫茶店にやって来たのかということすらも――。
 夕方になって「沙羅」のママ、光代がやって来て、マスターは光代と共に店を出て行った。昨日、諄亮がマスターの不調を知らせた時、光代は血相を変えた。その様子に諄亮はマスターと光代の関係が尋常ではないものを感じた。マスターは四十二歳、この店を開店させたのは十五年前、二十七歳の年だ。阿倍野のマンションに居住するマスターは、一度、女性と同棲していた過去もあったようだが、今は一人暮らしをしている。光代もその一人なのだろうか。店を出て行く二人の後姿には何年も連れ添ってきたような信頼関係がみてとれた。
 「あなたのコーヒー、美味しいわ。私、大好き!」
 その日、店を閉店した後、諄亮は陽菜にコーヒーを入れ、皿に盛ったケーキを渡した。
 コーヒーを口にする陽菜の顔に幼女のようなあどけなさが覗いた。十九歳という年齢に似合わない大人っぽい雰囲気を持っているかと思えば、時折みせるしぐさに少女の面影が色濃く残っていた。陽菜は不思議な女性だった。
諄亮はもっと陽菜のことを知りたいと思った。それで陽菜を食事に誘った。できればどこかで一緒に酒を呑み、話したかった。陽菜は諄亮の誘いを断らなかった。
 諄亮は、御堂筋を超えた道頓堀の西側へ陽菜を案内し、何度か行ったことのある間口の狭いこぢんまりとした居酒屋に入った。
 諄亮はこれまで真剣に恋愛をしたことがなかった。高校時代に同級生の女性と交際したが、二か月と続かなかった。ほとんど交際らしい交際がないまま、自然に消滅した。理由は諄亮の怠慢にあった。試験勉強に熱中していた諄亮は、時間のほとんどを試験勉強に費やし、女性との交際に時間を割いていなかった。それが不服だったのだろう。女性は自然に諄亮から離れて行った。
 陽菜に出会った時、諄亮の中を貫いた衝撃は、性愛の目覚めと呼ぶにふさわしいものだった。しかもそれはほんのちょっとした出会いによって生まれ、長い滞空時間を経て、諄亮の中で次第に大きく育っていった。
陽菜が諄亮の前に再び姿を現した時、諄亮はそれを偶然だとは考えなかった。むしろ必然だと考えた。そして、陽菜が喫茶店で働きたいと言った時、それは確信に変わった。陽菜と自分の出会い、それは運命的なものであるとこの時の諄亮は信じて疑わなかった。
 約四〇分ほど、諄亮は居酒屋で陽菜と話した。陽菜の口をついて出る言葉のほとんどが趣味や嗜好の話ばかりで、自らの過去や現在の生活について一切触れることはなかった。
 酒を呑めば少しは変わるのではと思ったが、それもなかった。陽菜はどれだけ酒を呑もうとも少しの乱れもなく、変わらぬペースで諄亮に対した。
 居酒屋を出た諄亮は、陽菜に聞いた。
 「地下鉄で帰るの?」
 陽菜は笑顔で答えた。
 「歩いて帰る」
 履歴書に記載されている陽菜の住所は西宮市のはずだった。地下鉄で梅田まで行き、そこから電車に乗って帰るのが普通だ。終電車に間に合わない時間ではなかった。
 「電車に乗らないの?」
 「うん」
 陽菜は、諄亮に軽く手を振り、御堂筋を北に向かって歩き始めた。陽菜に声をかけることすら忘れ、諄亮はその後姿を呆然と見つめていた。
 翌朝、午前七時、喫茶店を開店した諄亮は忙しく立ち働いていた。この時間帯は会社に出勤するサラリーマンやОLが多く、モーニングサービスの対応に追われる。
 厚切りトーストとゆで卵、コーヒーで四〇〇円、午前十一時でモーニングサービスが終了するまで忙しさは続く。午前九時ちょうどにマスターがやって来る。陽菜もその時間に出勤してくるはずだった。だが、九時になっても陽菜は現れなかった。
 「どうしたんでしょうね……」
 一〇分を過ぎても姿をみせない陽菜に諄亮は苛立っていた。
 「なあに、寝坊しているんだろ。もうすぐ来るさ」
 マスターは鷹揚に構えていたが、諄亮はしきりに時計を気にしていた。午前九時半、諄亮は大学へ登校するために着替えを済ませ、店を出た。その時間になってもまだ陽菜は姿を見せなかった。
 店を出る時、諄亮がマスターに、
 「叔父さん、すみません。いい加減な子で……」
 と謝ると、マスターは笑って手を振った。
 地下鉄で梅田まで出て、そこから阪急電車に乗り換えて大学へ行く。諄亮は大学での授業を時折、苦痛に感じることがあった。将来に対する展望など何一つ持たない諄亮にとって、自分は何のために学ぶのかと、不安に思うことが多かった。医師になりたくないと両親の意思を突っぱねたものの、だからといって何を求めて何を主眼に生きていけばいいのか問われても、答えられない自分がいた。曖昧模糊とした諄亮の日々にとって、叔父の手伝いをしている時だけが唯一充実した時間といえた。
 陽菜は来ているだろうか。その日、授業を受けながら、諄亮はそのことばかりを考えていた。陽菜はつかみどころのない不思議な女性だった。だが、諄亮の心を捉えて離さない不思議な魅力があった。このところ、諄亮は陽菜のことを考えない日はなかった。
 一回生の時に入っていたクラブは、今はもうほとんど顔を出していない。大学の学舎にいても退屈なだけで、何の刺激も得られなかった。

    六

 授業を終えた諄亮はすぐに道頓堀に舞い戻った。陽菜のことが気になっていた。喫茶店の扉を開けると、明るく弾む声が飛んできた。陽菜の声だった。
 店は満員だった。マスターがカウンターの中で軽食を用意し、コーヒーを立てているのが見えた。
 「諄亮さん、昨日はどうもありがとう」
 ウエイトレスがすっかり板についた様子の陽菜が諄亮に声をかけた。
 「いや。それよりどうして今日、午前九時に入らなかったの?」
 諄亮が尋ねると、
 「寝坊しちゃった。ごめんなさいね、心配かけて」
 と陽菜が照れながら謝った。
 風邪の後遺症か、体調がすぐれないマスターに代わって諄亮がカウンターの中に入った。
 「マスター、陽菜は今朝、何時に来ました?」
 諄亮がマスターに確認すると、マスターは、
 「十時半頃だったかな。寝過ごしたと言っていたよ」
 と答えた。
 「どうもすみません。よく言い聞かせておきますから」
 諄亮が頭を下げると、
 「おまえ、あの娘が好きなのか?」
 とマスターが聞いた。答えることができず諄亮が言葉を詰まらせていると、
 「難しい娘だぞ、あの娘は――。半端な気持ちで付き合うと火傷する」
 とマスターが諄亮に警告をした。珍しいことだった。この店に来てバイトを始めて一年半ほどになるが、マスターが諄亮にそんなことを言うなど今までになかったことだ。
 なぜ、陽菜が難しい娘なのか、マスターに聞いてみたい衝動に駆られたが、陽菜がそばにやって来たため、聞くことができなかった。
その日、陽菜は午後六時に店を終えた。
 「明日は遅れないようにします」
 陽菜は快活にそう言って店を出た。
 マスターもこの日、早めに店を終えたため、諄亮が一人で店を切り盛りすることになった。この店は、午後八時まではカップルの客が多く、それが過ぎると水商売の女性が目立って多くなる。
 午後八時を過ぎた時間、客が途絶えた時間帯に訪れた客がいた。長い髪と黒いスーツ、のど元を開け離した白いシャツを胸元に覗かせた若い男は一見、ホスト風に見えた。
 「陽菜はどこへ行った?」
 席に着き、胸元からタバコを取り出すと、ホスト風の痩せぎすの男が諄亮に聞いた。
 「……今日はもう帰りましたが」
 動揺を見透かされないようにして諄亮が答えると、ホスト風の男はタバコに火を点け、苛立ったような声で諄亮に言った。
 「陽菜に言っておけ。俺から逃げようたってそうはいかんぞと。いいな」
 それだけ言うと、席を立ち、何も注文せずに店を出て行った。
 陽菜はあんな男に付きまとわれているのか――。諄亮はいよいよ陽菜のことがわからなくなってきた。
 その夜、店を閉店させた諄亮は、面接の際、陽菜が持って来たはずの履歴書を探した。履歴書は、カウンターの下、書類の入った小さなアルミ製のボックスの中にあった。
 学歴は女子短大在学中とあり、住所は西宮市、両親と同居となっている。家族は、すでに結婚している姉が一人いて、両親も共に健在の様子だ。父親は大手生保会社に勤務していた。母親は主婦――。何の問題もない健全な家族に見えた。
 そんな家庭の陽菜が、どうして宗右衛門町でも悪名高いクラブに勤め、ホスト風の荒んだ男に付きまとわれているのか。諄亮は陽菜のことがさらに気になった。考え始めると時間がとめどなく早く流れる。その夜、諄亮はとうとう一睡もできず、悶々と夜を過ごした。
 翌朝、諄亮はいつものように店に出た。開店前に仕込みをし、用意をして午前七時に開店する。コーヒーの香りが店内を覆い、その香りにつられるようにして客が集まってくる。諄亮の淹れるコーヒーを好む客は多かった。そんな中、毎朝、欠かさず散歩がてらにやって来る七〇歳過ぎと思われる老人がいた。毎朝七時過ぎ、老人はステッキを片手にやって来て、店内の奥まった場所に身を沈める。諄亮の淹れたコーヒーをゆっくり味わいながら飲み、三〇分ほどかけてコーヒーを飲み終えると、店を出て行く。
 「今朝もありがとう。きみの淹れるコーヒーはとても美味しいよ」
 その日の朝、レジに立った諄亮に珍しく老人が口を開いた。
 「いつもありがとうございます」
 諄亮は体を折り曲げるようにして礼を述べた。
 「きみは学生さんかね?」
 「はい――」
 「もしきみが『株』に興味があって、将来、その道に進みたいと思う気持ちがあれば、いつでも私に相談してくれ。きっときみの力になれると思う」
それだけ言い残して、老人は店を出た。
 株――、諄亮にとって未知の世界が、突然、目の前に迫って来たような錯覚を覚えた。
 将来に何の展望も持たず、どこにも行くあてがなければこの店でコーヒーを淹れ続けてもいい、そんな気持ちにさえなっていた諄亮である。老人がどの程度の人であるか想像もつかなかったが、一筋の光明を与えてくれたような気がして少しだけ安堵した。

    七

 店を訪れる客たちともすっかり顔なじみになり、会話を交わす客も少なくなかった。プロ野球を話題にする人、サッカーを話す人、政治の世界を論じる客もおれば、恋愛談義に花を咲かせる客もいた。
 諄亮は常に聞き役で、時に頷き、時に笑い、時に怒りを共有して会話を高めた。人と話すことは諄亮にとって何よりも勉強になった。それは成長の糧となり、諄亮を穏やかで人間的な大人へと成長させていくもののように思えた。
 午前九時、陽菜がマスターより少し早く姿を見せた。諄亮はマスターと交代して店を離れることになっていた。しかし、その日、マスターは出勤時間を過ぎても姿を現さなかった。心配になった諄亮がマスターの家に電話をすると、「もしもし」と女性の声が聞こえた。
 「すみません。諄亮ですが、マスターはいらっしゃいますでしょうか?」
諄亮の声に相手の女性がすぐに反応した。
 「ああ、諄亮さん。ご苦労さま。私ですよ。『沙羅』の光代です」
 諄亮は驚いて受話器を落としそうになった。
 「マスターは先ほどこちらを出ました。少し遅くなりますがよろしくお願いします」
 落ち着いた光代の声が、まるでマスターの妻であるかのような感覚で耳に響いてしばらくそれは離れなかった。
 「マスターの来るのが遅れそうだから、もう少しいるよ」
 陽菜に伝えると、陽菜の顔が少しほころんだように見えた。
 三〇分ほど遅れてマスターがやって来た。入れ替わりに諄亮が店を出た。
 「行ってらっしゃい」
 店を出る諄亮の背中に陽菜の声が追いかけてきた。
 陽菜との仲は一向に進展していなかった。だが、諄亮の陽菜への思いは募るばかりだった。気持ちを打ち明けようにもチャンスがなかった。陽菜は午後六時になると帰ってしまう。焦りがあったが、今一つ踏み込めない何かが諄亮の中にあった。得体の知れない陽菜の生活、陽菜を訪ねてやって来たホスト風の男の存在――。男が訪ねて来たことを諄亮はあえて陽菜には告げていなかった。
 陽菜を見送って、その後すぐにマスターが去り、午後七時には諄亮一人になった。めまぐるしく入れ替わる客たちに翻弄されながら、諄亮はその夜も忙しく立ち働いていた。
 午後九時を過ぎた時間、先日のホスト風の男が再び現れた。少し酔っているようだった。
 「おい、陽菜はどうした?」
 ホスト風の男は店に入ってくるなり、諄亮に訊ねた。諄亮はその男の問いをわざと無視し、次々と現れる客のオーダーを取り、コーヒーを淹れ、ジュースを作っていた。
 「おい、聞こえへんのか! 陽菜はどうした?」
 諄亮はその男をキッと見返すと、
 「うちはコーヒー店です。客ではない人を相手にしている暇はありません」
 と言い返した。諄亮の言葉にホスト風の男の怒りが頂点に達したようだ。
 「クソ生意気な男やな。表へ出ろ!」
 男は大声で叫ぶと諄亮のシャツの襟首を掴み、店の外へ連れ出そうとした。
 諄亮は男の手を振り払うと、男について外へ出た。このままでは何度でも男はこの店にやって来る。陽菜とどんな関係があるかわからなかったが、ここではっきりと片をつけておく必要があると思った。
 ホスト風の男は、諄亮がついてきたことに戸惑っている様子だった。案外臆病な口だけの男かもしれないと思い、男が弱気になった瞬間に乗じて、諄亮が背後から声をかけた。
 「陽菜は俺の女や。おまえとの関係はわからんが、今は俺の女や。今後一切、この店に来るな。来たら俺はお前を半殺しにする」
 脅すように言って、背後から男を蹴とばすと、男は何なく転び、怯えたような表情をみせた。高校時代に日本拳法を習い、段位を取っていたこともあって、いざという時は闘える自信があった。しかし、男は立ちあがると諄亮に向かって来ず、そのまま遁走した。
 喧嘩にはまったくといっていいほど興味がなかった。しかし、陽菜を助けるためにはそれも厭わなかった。諄亮の陽菜に対する感情は日を追うごとに昇華していた。それをこの日、諄亮ははっきりと自覚した。

     八

 「おまえは――!」
 仕事を終えて店を出た陽菜は、少し歩いたところで、中年の男に呼び止められた。中年の男は強い力で陽菜の腕を掴むと、「今度は逃がさへんでーっ」と舌舐めずりをして吠えた。
 以前、陽菜が食い逃げをした山田だった。執念深い山田は、あの日以来、陽菜を追いかけ続けていたのだ。
 陽菜は声を出して叫ぼうとしたが、それより早く男の手が伸び、陽菜の口を塞ぐと低いくぐもった声で陽菜を脅した。
 「陽菜ちゃんやったよな。この間のお礼、ちゃんとしてもらうぜ」
 少し歩くと、にぎわいの中にラブホテルが見えた。山田はそこへ陽菜を連れ込もうとしていた。
 道行く人は、陽菜が山田に拉致されようとしているのをみても何の関心も示さなかった。陽菜は懸命に塞がれた口を解こうとしたが、山田の強い力に阻まれてどうすることもできない。右腕もそうであった。掴まれた右腕は下手をすれば折れてしまいそうなほどに強かった。
 「逃した魚は大きいと言うけどほんまやなあ。あの日以来、わしはずっとあんたとやることばかり考えてきた。今日はその思いを存分にかなえさせてもらうぜぇ」
 山田のひどい口臭に耐えられないものを感じながら、陽菜は何とか脱出しようとジタバタしたが、山田の飽くなき執念がそれを許さなかった。
 ホテルが目の前に近づいた時、安堵したのか、一瞬、山田が力を抜いた。その隙を狙って陽菜は山田から逃れ、脱兎のごとくその場を走り抜けた。
 店に飛び込んできた顔面蒼白の陽菜を見て、諄亮は驚いた。
 「どうしたんや、陽菜ちゃん」
 諄亮が声をかけると、陽菜が恐怖の面持ちで後ろを指さした。背後に中年の男、山田が迫っていた。
 諄亮は急いで陽菜の元へ近づくと、陽菜に襲いかかろうとする山田の体を突き倒した。ひっくり返った山田は、腰を抑えて立ち上がると、なおもしつこく陽菜に襲いかかろうとする。諄亮は山田の腕を捕らえると、一瞬のうちに外へ放り投げ、腕を固め、陽菜に警察を呼ぶよう命じた。
 すぐに警察がやって来て、山田は交番へ連れて行かれた。諄亮と陽菜も参考人として事情聴取を受けることになった。交番で山田は、「この女に騙された」を繰り返し、自分に罪はないと言い張った。しかし、公衆の面前で山田が陽菜を捕まえ、暴行目的でホテルに連れ込もうとしたことは明らかだった。それについて山田は、合意の上のことや、と言い張り、一部始終を警官に話して聞かせ、同情を誘おうとした。
 しかし、警官が同情などするはずもなかった。山田は婦女暴行未遂の疑いで逮捕、そのまま拘留されることになった。
 陽菜もまた、警官に厳しく注意を受けた。警官は、「大人をなめたらえらい目に合う、そのことを肝に銘じるように」と陽菜を叱責して、釈放した。
 諄亮は、怯える陽菜の肩を抱くようにして交番を出ると、放ったらかしにしてきた店に戻り、客に詫びて早い閉店をした。
 怯えの収まらない陽菜のために諄亮は温かいコーヒーを用意し、差し出した。陽菜は、コーヒーを口にすると、少し安堵した表情を浮かべ、諄亮に言った。
 「驚いたでしょ。私のこと――」
 諄亮は何も言わなかった。無言のまま陽菜の前に座ると、陽菜の小さな白い手を両手でやさしく包んだ。
 「高校を出て短大に入って、すぐに家を出たの。父は生保会社の部長職に就いていた社内ではずいぶん評判のいい人だったけれど、家では暴君だった。聞くに堪えない言葉を吐いて母を叱責し、暴力を奮った。母どころか私にも自分のとんでもない理想を押しつけて、言う通りにしないと叱り飛ばす。そんな父親との生活に耐えられなくなって、私は家を飛び出し、短大にも行かなくなった。手っ取り早く金を稼げるところと思って水商売に入ったけれど、そこがまたひどいところだった。暴力団の経営する悪質極まりない店だということはすぐにわかったけれど、やめることができなかった。その頃、私はひどい男に引っかかって、ヒモ同然のその男のために働かされる生活をしていたから――。
 何とか男から逃れたいと思い、懸命に努力したわ。でも、いつもすぐに見つかって連れ戻された。
 それでも何とかしたい、そう思って男のところを逃げるようにして飛び出したけれど、金もなく住まいもなかったから大変だった。住まいは、短大時代の友だちが長堀橋に住んでいたからそこでしばらく厄介になることができたけれど、食事まで世話になることはできなかった。仕方なく何人もの男を騙して食事をおごらせた。鼻の下を伸ばして近づいてくる男を騙すのは簡単だったわ。でも、そのうち、何もかも嫌になって――。死にたいと本気で考えていた時、諄亮に出会った。諄亮の淹れてくれるコーヒーが美味しくて、私、もう少し生きて見よう、そんな気持ちにさせられたの――。諄亮のやさしさが私、忘れられなかった。だからもう一度会いたい、そう思って訪ねて、もし雇ってもらえるのだったら、一緒に働くことができたら――。だから一緒に働けるようになった時はとても嬉しかった。ただ、私には醜い過去がある。それを諄亮だけには知られたくなかった。そう思っていたけどだめだったわ。あんな男が現れて――」
 陽菜は言い終わると、席を立ち上がり、洗い物をすると言って厨房に立った。諄亮は無言のまま、窓辺に立つと、道頓堀川を眺めた。ネオンのきらめきは日によって違って見える。川の流れもまた一様ではない。昨日と今日は違って当然だ。何かを失い、何かを得て日が過ぎて行く。
 食器を洗い終えた陽菜が、諄亮の前に立った。
 「諄亮、いろいろありがとう。諄亮に会えて、本当によかった」
 笑顔の陽菜はそれだけ言うと右手をスッと諄亮の前に差し出した。
 「マスターによろしく言っておいて」
 諄亮も右手を差し出し、陽菜の右手を固く握りしめた。
 道頓堀の喧騒はこの店の中までは届かない。モダンジャズの軽快な音曲だけが店を支配している。出会いも別れも一瞬だ。今、この手を離せば、永遠にこのぬくもりはつかめない。人を愛するということは、すべてを受け止め、すべてを愛しぬくことだ。
 高校時代、唯一付き合った人は、諄亮の心が自分にはないことを知って去って行った。あの頃、諄亮は、何よりも自己を愛した。自分を愛するように人を愛せることができなかった。だが、今の諄亮は違う。自己を愛する以上に陽菜を愛している、そんな実感があった。
 諄亮は、握りしめた右手にゆっくりと左手をかぶせた。諄亮にできる、それが最上の愛情表現だった。言葉など何の役にも立たなかった。どんなに言いつくろっても、言い尽くせないのが愛だと思った。
 諄亮の温かな手のぬくもりが、陽菜に伝わったのだろうか、陽菜の大きな瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
 店を支配する音楽も街の喧騒も、今の二人の耳には届かなかった。そんな空間に二人は包まれていた。
 陽菜はこの日、至上の愛を手に入れ、諄亮もまたこの日、永遠のパートナーを手に入れた。
<了>


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