豊臣埋蔵金伝説を追え(一)

高瀬 甚太

 天神祭を過ぎると、大阪の夏の暑さはますます過熱する。盆が過ぎるまで猛暑の日が続くのだが、この年の暑さは例年に比べ類のない暑さだった。
 この日、午前の早い時間に一人の訪問者を迎えた。約束の時間は午前9時だったが、訪問者は5分ほど前に現れた。私は大慌てで、効き目のないクーラーを気にしながら客を部屋の中へ招き入れた。
 「湯浅よしみです。本日は突然、お邪魔して申し訳ありません」
 1ルームの狭い部屋の私のデスクの前に座ったよしみは、丁寧に挨拶をし、私の前に一個の鍵と箱を差し出した。
 目の前に置かれた草色の鍵を見て、
 「えらく旧い鍵ですね。何時の時代のものですか?」
 と聞き返したほど、その鍵は歴史を感じさせるものだった。
 「編集長のお噂を聞いて、本日、お伺いさせていただきました」
 と、よしみは言い、再び頭を深く下げた。三十代半ばであろうか、美しい容姿の人であった。何よりも上品で、つつましやかな態度に好感が持てた。
 「あのう、お断りしておきたいのですが……」
 私は、よしみに対して、
 「どのような噂をお聞きになったか知りませんが、私は何の変哲もない一介の編集長で、力も能力も何も持ち合わせていませんので、どうかそのことをご了解ください」
 と最初に告げておいた。最近、出版に関係のない事件や探し物の依頼が多く、つい引き受けてしまう自分の浅はかさを嘆いてきた経緯がある。好奇心が旺盛といえば聞こえはいいが、要はそそっかしくて、人に乗せられてしまいやすいだけなのだ。
 「今回の件について、これまでいろんな方の尽力を得て、ありとあらゆる方法で探してまいりましたが、うまく行っておりません。それで困っていたところ、ある方から編集長のお名前をお聞きしました。その方は編集長ならきっと解決してくれる、そうおっしゃったので、こうして失礼も顧みず、やってまいりました。編集長が出版の専門家であることは充分、存じています。今回の件はそうしたことにも関係がありまして、それで――」
 ある方から聞いて――、よしみはそう言った。多分、それは大阪府警の原野警部だろうと勝手に推測した。原野警部は何か相談を受けると、面倒なことはすべて私に押し付ける傾向があった。こちらの迷惑など彼はまるで気にしていない。
 「せっかく来ていただいたことですし、一応、お話だけはお聞きします。それで私に無理なことであれば、お断りさせていただきます。それでよろしいですか?」
 よしみは素直に了解し、それでは、と断って話し始めた。
 ――埋蔵伝説をご存じでしょうか。日本にはこうした埋蔵伝説が数多くあり、テレビなどでも時々、取り上げられたりしていますが、そのほとんどは都市伝説のようなもので、噂の域を超えていません。私の家が豊臣時代から続く旧家であることは知っていましたが、埋蔵伝説と縁があるなど、これまで考えてもいませんでした。ところが、私の祖父が亡くなる少し前、話したいことがあると私を呼んで、驚くべき言葉を口にしました。
 祖父は八十を少し超えており、病気がちでこそありましたが、死期が近いことなど微塵にも感じさせない頑強な肉体を誇っていました。だから、昔話を聞かせてもらう、その程度の気持ちで祖父の前に座ったのです。
 「お前も知っている通り、うちの家系は、豊臣家の血筋を引いている。豊臣秀吉の時代には、金庫番を任されるほどの家だった。しかし、徳川との戦いに破れ、地に落ちた我が家の先祖は、逃走中に、豊臣家の財宝をある場所に隠した。先祖は豊臣家の再興を願って、隠した財宝を代々、大切に守り抜いてきたのだ。
 湯浅家には、代々、引き継がれる遺書というものがあり、それを伝えられるのは選ばれた者に限られ、必ずしも長男、長女に限らないということになっている。
 かくいう私も、三男だったが祖祖父に伝えられた。文書を渡された時は驚いた。銅で作られた鍵と一緒に墨で書かれた謎めいた書、一体何が書いてあるのか不思議でならなかった。祖父は私に言った。このことを誰にも口外してはならない。親兄弟にも喋ってはいけないと。詳細を聞いたのは、祖父が亡くなる直前だった――」
 と言うのが祖父の話で、その時、私は祖父に玉手箱のような箱に入った文書と、この鍵を預かりました。信じられない話だとお思いでしょうが、祖父は、この鍵は豊臣家の財宝を開く鍵と申し、玉手箱に入れられた文書は、財宝を隠した場所を示したものだと申しました。これがその玉手箱と鍵です――。
 湯浅よしみの話は仰天するような、眉唾ものの話だった。玉手箱を開けて中から書を取り出すと、彼女はそれを私に見せた。
 「いいのですか? こんな大切なものを見せていただいて」
 門外不出の書を見ることに少し抵抗があったが、よしみは委細構わず、
 「どうぞ、お読みになってください。それを見ていただきたくて持って来ました」
 と言う。
 書を広げて読みはじめようとするが、理解不能の文字ばかりでうまく読み取ることができない。
 「これは何という文字ですか?」
 どこの国の言葉なのか、見たこともない文字が並んでいた。
 「埋蔵した財宝の隠し場所を記した書ですが、私はもちろんのこと、他のどなたも読み取ることができません」
 しばらく書を眺めていた私は、その書をみてあることに気が付いた。
 「これは文書ではありませんね。おそらく暗号ではないかと思います」
 「暗号――ですか?」
 「この文書は、多分、文書としては成り立たないものだと思います。記号を並べた暗号のようなものではないでしょうか」
 書は、和文でも漢文でもなく、見たこともない形式の文字で和紙に書かれていた。
 「祖父は私に、こう言いました。この文書の内容について、とうとう私はわからずじまいっだった。祖祖父もそうであったようだと。本来なら門外不出の書だが、もし、お前が知りたいと思うのであれば、どなたか信頼できる者にこの書を見せて相談してもよい、と。編集長にお見せするまでにすでに、民俗学者の教授、書の研究家、推理小説作家などにお見せしています。でも、どなたも解くことができませんでした。暗号だと看破したのは編集長が初めてです」
 暗号ではないかとは言ったものの、文書として成り立たない文字とその配列からそう考えただけで詳しい知識が私にあるはずもなかった。
 「それよりも、もし、この鍵と文書で埋蔵金の在り場所を探し出したとして、あなたはそれをどうなさるおつもりですか?」
 「元々、財宝は豊臣家の再興のためのものと聞いています。しかし、それは現在においては何の意味も成しません。私が考えたのは、財宝がどれだけあるか別にして、これを災害のための基金にしたいということです。ご存じのように現在の日本は、津波、地震、大雨、火山噴火、台風など数々の災害に襲われ、被災者が多数存在するのに、充分な手当てができていません。私は、もし財宝が見つかれば、そうした方々の力になりたい。そう思っています」
 「主旨は大変結構ですが、財宝を埋蔵しているなど、本当に信じておいでですか?」
 私の疑問に彼女は平然として答えた。
 「先祖代々伝えられてきたことです。私は私の先祖を信じております。文書の謎が解きさえすれば、必ず財宝は見つかるものと信じています」
 「しかし、この文書は厄介です。そう簡単に解けるとは思えません。通常、暗号というのは、単語やフレーズを、事前に決めておいた言葉や記号と置き換えることが多いのですが、これがそうした符牒や隠語であるかというと……、はっきりとした確信が持てません」
 文字として成り立たない文書、文字として成り立たない文字、でたらめと思われる文字の配列――。これを読もうとするから無理があるのではないか。むしろ「見る」という視点から考えれば――。
 「湯浅さん、一つお願いをしてもよろしいですか?」
 「はい、何でしょうか?」
 「湯浅家は先祖代々豊臣家に仕えていたとおっしゃいましたよね」
 「はい、そうです。そう伝えられて来ました」
 「それなら、先祖代々伝えられてきたものが他にあると思うのですが、それを一度、お持ちしていただけませんか?」
 「それをどうなさるおつもりですか?」
 「この文書は読むものではなく、見るものとして考えたらどうだろうかと、ふと思いました。文字としては成り立たないが、絵として考えたら、もしかしたら何かヒントが掴めるのでは、その謎を解く鍵が先祖代々伝えられてきた何かに関係しているのではと考えたのです」
 「わかりました。早急に探します」
 彼女は納得した様子で手帳にメモを取ると、急いで事務所を出た。
文書と鍵は返したが、文書のコピーは取らせてもらった。湯浅家にどんなものが伝えられ、残されているか、判然としなかったが、もし、それらがわかれば何かのヒントを得ることができるのでは、私はそこに淡い期待を抱いた。
 断ろうと思っていた頼まれごとを、私はいつもこうして引き受けざるを得なくなってしまう。自分のそそっかしさとお人よしにあきれながら、私はコピーした文書をもう一度見直した。
 
 翌日の午後、湯浅よしみから、今からお伺いしていいかと電話があった。構わないと答えると、彼女はすぐにお伺いしますと答えて電話を切った。
一体、どんなものを持って来るのだろうか、興味津津で到着を待った。
 埋蔵金の話など端から信じていないのに、この興奮はどうしたものだろう。私は、よしみの話に信憑性を覚え、もしかしたら見つけることができるのではないか、と淡い期待を抱いていた。しかも豊臣の財宝だ。おそらく桁が違うだろう。
 しかし、すぐにやって来ると言っていた彼女は1時間過ぎても2時間過ぎてもやって来なかった。どうしたのだろうか。湯浅よしみに連絡する方法を持っていなかった私は、ただ待つしか術がなかった。
 午後7時、待ちくたびれた私は、ニュースでも観ようと思い、テレビを点けた。ちょうどその日の出来事を伝えるニュースをやっていて、その中に気になるニュースが一つあった。
 〈今日午後3時、○○通りの歩道で、女性が突然倒れ、救急車で運ばれましたが、意識不明の重体で、警察で現在、身元確認を急いでいます〉
 ○○通りといえば事務所からそう遠くない場所にある。しかも午後3時といえば、湯浅よしみが電話をかけて来て、すぐにお伺いします、と伝えて来たのが午後1時半だった。時間的にも合致する。私は、テレビ局に電話をし、ニュースで伝えられた身元不明の女性が私の知っている方かも知れないと話し、入院している病院を教えて欲しいとお願いをした。すると、テレビ局の担当は、警察の連絡番号を紹介し、先にこちらの方へ連絡してほしいと案内した。
 教えられた番号に連絡をすると、係員が出て、「一度、こちらの方へお出でいただきませんか」と大阪府警の事故係に来てくれるよう言った。仕方なく私は、自転車に乗って大阪府警本部に向かった。
 大阪府警の事故係担当員は、状況を詳しく説明し、事故というよりも事件の可能性があることを示唆した。事件と聞いて、驚いたのは私の方だ。
 「熱中症で倒れたんじゃないかと最初は思ったんです。それで事故として処理しようとしたのですが、病院から報告が来て、どうやら熱中症や持病があって倒れたのではないようだと言います。現状、予断を許さない状況ですが、外部から何かの衝撃を受けて倒れた可能性があると医師からの報告がありました。バッグの中の財布、貴金属類は無事でしたから物取りの犯行ではないようですが――」
 「もし、私の知っている方であれば、何か手に持っていたはずだと思うのですが」
 「いえ、手に持っていたのはハンドバッグと日傘だけのようでした。その他の手荷物は聞いておりません」
 担当官に女性の手荷物を見せてもらうと、ハンドバッグに見覚えがあった。湯浅よしみの特徴を話すと、担当官の控えと合致した。おそらく間違いはないだろうとは思ったが、念のため病院で確認させてもらえないかとお願いをした。
 担当官が病院に電話をすると、担当の医師が出て、
 「どうにか一命を取り留めましたので、もうしばらくしてからきていただければ結構です」
 と担当官に説明したようで、担当官はそれをそのまま私に伝え、
 「意識を取戻し、一命を取り留めたようですよ。もし、病院へ行かれるのであればパトカーでお送りしますが」
 と親切に言ってくれたが、パトカーに乗るのに抵抗のあった私は、丁重にお断りして自転車で病院へ向かった。病院は大阪府警とそう遠くない場所にあった。
 病院に出向くと、警察から「聴取が終わってからお会いになってください」と言われ、待合室で待機することにした。
 湯浅よしみでなかった場合のことも考えていたが、担当官の話を聞く限り、本人としか考えられなかった。それにしても、もし担当官の言うように、事件であった場合、どのように考えたらいいのだろうか――。
 警察による聴取が終わり、湯浅よしみと思われる女性に対面できることになったのは2時間後の午後11時だった。
 「5分ほどにしてくださいね」
 医師に言われ、病室へ入ると、やはり患者は湯浅だった。湯浅は私の顔を見ると、
 「すみません、編集長……」
 と言ったが意識がまだ朦朧とするのか、うまく話すことができなかった。
 「もしかしたらと思って……。でも、無事でよかった」
 と、労わるようにして言うと、
 「編集長にお渡しするものを盗られてしまいました」
 途切れ途切れに言って、彼女は目を閉じた。そのまま眠ってしまったので、私はその場を離れた。
 私に渡すもの、湯浅家に先祖代々伝わるものが奪われた――。それは何を意味するのか、湯浅家に伝わる財宝の秘密を知るものの犯行としか思えなかった。しかも、その者は彼女が今日、湯浅家に伝わる何かを私の元に届けることを知っていた。そうなると犯人は自ずと限られてくる。湯浅家の関係者で湯浅よしみに近いものの犯行としか考えられなかった。
 翌朝、早朝に病院を訪れた私は、湯浅よしみの部屋を訪ねたが、彼女は別の病室に移っていた。大阪府警の刑事がすでに到着していて、昨夜に続いて聴取を行っていた。聴取を受ける湯浅よしみの表情は昨夜とは打って変わって明るく見えた。
 「編集長、どうしたんだ? こんなに早く」
 野太い声に驚いて振り返ると原野警部が立っていた。
 私は、一昨日、湯浅よしみの訪問を受け、相談されたことを手短に伝え、昨日、私のところへやって来る途中、襲われて病院へ運ばれたのだと話した。
 「編集長のところへ再訪する途中だったのか、彼女、歩道を歩いていて背後から来た何者かにスタンガンで襲われて持っていた荷物を奪われている。元々、心臓に持病のある彼女は、スタンガンのショックで心臓発作を起こし、意識を喪失して病院に運ばれ、生死の境をさ迷った。たまたま助かったが、危ないところだった」
 原野警部はそう話して、金銭の類が盗まれていないのが不思議だと首を捻った。
 「湯浅さんを私のところへ紹介したのは原野警部でしょ。湯浅さんとはどんな関係なのですか?」
 湯浅よしみを私のところへ行くよう勧めたのは原野警部に違いない。そう信じて疑わなかった。だが、原野警部に尋ねると、原野警部は「えっ?」と驚いた顔をして私を見た。
 「今回は私じゃない。相談を受けて面倒な時は、井森編集長のところへ行けと言って追いやるのだが、湯浅さんとは初対面だ」
 では、誰なのか、それもよしみに聞いてみないといけないと思った。もしかしたらその人物がこの事件に何らかの関係を持っている可能性がある。
 「湯浅よしみが編集長に相談した件だが、もう少し詳しく教えてくれないか。今回の事件は、金品を一切盗まず、彼女の手荷物だけを奪っている。編集長を再訪する途中だと聞いたが、編集長に手渡す品が盗まれている可能性がある」
 原野警部に、湯浅よしみから相談を受けた一切合財を話して聞かせた。豊臣家の財宝云々のところで原野警部は一瞬、顔をしかめたが、それでも最後まで話を聞き、メモを取ることを忘れなかった。
 「じゃあ、昨日、彼女は編集長のところへその品物を持って行こうとしていたんだな」
 「そうだと思います。電話があったのが午後1時半、すぐに行きますと言って電話が切れました。なかなか来ないのでおかしいと思っていたところにテレビのニュースです。急いで電話をして――」
 「彼女を襲った犯人は、編集長にその品物を見て欲しくなかったのかも知れない。となると襲ったのは、彼女の周辺の人間と言うことになるな」
 「一昨日が初対面でしたから、私は彼女のことを何も知りません。豊臣家の財宝云々という話も、疑っていたわけではありませんが信じきっていたわけでもありません。ただ、面白いなあとは思いました」
 「湯浅の家族、あるいは彼女の周辺の人間で、今回、編集長のところへ品を持って行くと誰に話したか、それを彼女に聞いてみる必要がある」
 原野警部は立ち上がると、「何かわかったら教えるよ」と言い残して私の元を去った。この分だと、私が彼女に話を聞けるのはもう少し後になりそうだ。
 病院のロビーで時間を潰していると、案内所で湯浅よしみの部屋を尋ねる声が聞こえてきた。老齢の紳士と若年の男性、そして年増の女性の三人だった。
 「湯浅よしみさんの面会は午前11時からですのでもうしばらくお待ちください」
 受付の女性が答えると、老齢の紳士が、
 「よしみの祖父じゃ。昨日、孫が事件に遭ったと聞き、警察から連絡を受けてやって来たんじゃ。早く会わせろ」
 怒鳴るようにして言うと、受付の女性は上司に相談をして、
 「わかりました。さぞご心配でしょう。十二階の302号室です」
 とエレベーターを指さした。
 「あの人がよしみの話していた祖父か……」
 死期を感じさせない元気な歩みを見せる老人の後姿を眺めながら、私は三人の後をゆっくりと追いかけた。エレベーターが開き、三人が乗ると、私も同じエレベーターに乗り込んだ。
「警察の話では、意識不明の重体だったと聞いたが、よしみは大丈夫じゃろうか」
 老人が言うと、年増の女性が、
 「今朝の警察の電話では意識も回復し、すっかり元に戻ったようだと言ってたわ」
 と言い、続いて若年の男性が憂うようにして言った。
 「姉貴は心臓が悪いからなぁ。それにしても姉貴の旦那はどうしてるんだ。連絡の一つもなかったぜ」
 よしみが結婚をしていることをその時、初めて知った。
 「あいつは、ごくつぶしじゃ。よしみもあんな男、早う見切りをつけたらええんじゃが」
 老人が言うとそれに呼応するようにして、年増の女性が言った。
 「それはそうと、警察の話では何かを盗られたということだったけど、何を盗られたのかしら。お金でも貴金属でもなかったようだけど……」
 エレベーターのドアが開き、三人が降り、私もその後に続いて降りた。
十二階の302号室の前まで来ると、ちょうど警察の事情聴取が終わったところだった。警察と入れ違いに三人が302号室へ入って行った。
 私は三人が帰るまで待つことにした。十二階の休憩室のようなところへ足を運び、椅子に座ると、同時にエレベーターから一人の男が走り出てきた。足早にその男が向かった場所はよしみの入院する302号室だった。
 彼がよしみの夫なのか、顔は判然としなかったが、後姿を見る限り、背の高い、痩せ形の男だった。
 休憩室の椅子に座ってこれからのことを考えた。
 よしみの話した埋蔵伝説は、彼女が私に届ける予定の資料を奪われたことで一から出直しになってしまった。文書のコピーをもう一度、取り出してみた。やはり、一読しただけではまったくわからない。彼女に告げたように、 この文書は文書として捉えるとまったく意味不明のものとなる。だが、発想を変えて見直すとどうか。たとえば図として考える。記号として考える――。さまざまな方法が考えられた。しかし、何か解くためのキーがなければ難しい。彼女が私に届けようとした資料が何であるか、早く知りたかった。その資料が手に入れば何かわかるものがあるかもしれない。
 三人と後から入った一人、計四人は部屋からなかなか出て来なかった。1時間が過ぎても誰も部屋の外にすら顔を出さない。私はまた考えた。よしみを襲って資料を奪った犯人は、決して通りすがりの犯行ではない。金品を奪われていないところから考えても資料を狙った犯行とみて間違いない。だとすると、埋蔵伝説は急に信憑性を帯びてくる。少なくとも犯人は埋蔵伝説を信じている。信じているからこそ、彼女の手から資料を奪った。
 昨日の今日のことだ。彼女が話さなければ、犯人は私に資料を届けることを知らない。彼女の親しく接する人の中に彼女を襲った犯人がいるはずだ。それは誰か。一刻も早く彼女が誰に話したか、その相手を聞いてみたい。気が焦ったが、彼女の部屋から誰も出て来なかった。
 ――ようやくドアが開いて、一人が顔を覗かせた。よしみの主人と思われる先ほどの男性だった。
〈つづく〉

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