終いの玄ちゃん

高瀬 甚太

 閉店間際になると、いつも慌てて飛び込んでくる客がいる。
 以前、えびす亭は、深夜十二時まで営業していたが、年々時間が短縮され、今では午後十一時になると閉店の準備に取り掛かる。十時半を過ぎた途端に客が減り、十一時を過ぎると新しい客はほとんど入って来ない。店に残っているのは、だらだらと酒を呑み、閉店します、と大声で告げないと帰らないしぶとい客だけである。
 「まいどー!」
 閉店間際に入店してくる玄ちゃんは、えびす亭の中で「終いの玄ちゃん」と呼ばれている客である。深夜十二時が閉店の時には十二時五分前に、十一時半が閉店の時も同様に閉店五分前に、十一時が閉店時間になった今もやはり五分前に入店する。
 店にとっては困った客の一人であった。五分前に入って来て、あれこれ酒の肴を注文する。おでんとか作り置きのものを注文するならまだ許されるが、わざわざ揚げ物や炒め物など面倒なものを注文する。
 「玄ちゃん、ええ加減にしてくださいよ。せめて二〇分早く入ってくれませんか。たまになら仕方がありませんが、毎日のようにこれでは働く者たちも困ります」
 マスターが玄ちゃんに強く抗議したことがある。しかし、カエルの面にションベンである。玄ちゃんのそれは一向に直りそうになかった。
 怒り心頭に達したマスターは、壁に貼り紙をして告知した。
 『閉店が迫った時間に入店されたお客様は、酒は一杯まで、追加注文はできません。酒の肴は、作り置きのものに限ります。閉店時間になりますと暖簾を下ろしますので、暖簾を下ろしたら、たとえ飲酒中であってもお帰り願います』
 この貼り紙は効果大であった。いつものように閉店間際に入ってきた玄ちゃんだったが、酒を一杯、おでんを二個食べただけで、たちまち店を追い出された。
 「マスター、困りますよ。私はえびす亭の常連ですよ。その常連に対して何てことをするんですか」
 しかし、玄ちゃんの抗議もそこまでだった。
 「玄ちゃん、いいですか。玄ちゃんのおかげで従業員の帰宅が遅れるし、いろんな意味で大迷惑しているんです。自分のことばかり考えないで店のことや、店で働いている人たちのこともちっとは考えてください」
 そうやってマスターに言われると、玄ちゃんは何も答えられない。渋々帰って行った。

 終いの玄ちゃんがえびす亭から姿を消して一カ月近くが経った。さすがのマスターも玄ちゃんのことが気になって仕方がなかった。何より玄ちゃんの、馬より長いと言われるナスビ顔が見られないのが何より寂しかった。ひょろっと背が高く、笑うと思い切り歯茎が見える。そんな玄ちゃんの風体も、目にしなくなるとなぜか懐かしく思えてくる。マスターは思いついて、ある夜、閉店時間をわざと遅らせてみた。十一時閉店を半時間ずらせてみたのだ。するとどうだ。閉店五分前、あのナスビに似た長い顔がひょろひょろと姿を見せたではないか。
 「玄ちゃん、久しぶりでんなあ」
 マスターが笑って言うと、玄ちゃんは、「仕事がね、いつも遅くなって……」と言い訳がましく言って、ビールとおでんを三個頼んだ。
 
 玄ちゃんの名前は、飯干玄一、仕事はガードマン。年齢は三十八歳、未だ独身だ。介護が必要な父親と一緒に住んでいる。そのことをマスターが知ったのは、つい最近のことだった。
 閉店間際にやって来るのは、ガードマンとしての職業上の都合もあったし、仕事のない時は、父親を寝かせつけてからしか家を出ることができないという事情もあったのだと、マスターは玄ちゃんから直接聞かされた。
 「私はえびす亭が大好きなんですよ。いろんな店があるけれど、えびす亭が一番、酒をおいしく呑めるんです」
 その時、玄ちゃんはマスターに、恥ずかしそうにそう語ったという。
 マスターはそんな玄ちゃんのために、何とかしてやれないかと考えた。しかし、玄ちゃんの都合に合わせて閉店時間を変えたりすることは不可能だ。あれこれ模索した後、マスターは一つのことを思いついた。それは、店に来れる時間がわかったら玄ちゃんに電話をしてもらうということだった。
 「でも、十時台とか十一時を少し過ぎるだけだったらマスターに電話をしてということもできるでしょうが、それ以上遅くなる時はだめなわけですから……。どうしたらいいんでしょうね」
 玄ちゃんの問いにマスターは明確に答えてみせた。
 「こうしましょう。うちの閉店時間については申し訳ないが変更することはできません。玄ちゃんにも本当はできるだけ営業時間内に店に入っていただきたいのですが、それが無理な時は、電話をしてください。ただし、制限時間というものがありますからすべてオーケーというわけではありません。時間さえ許せば、電話をしていただいたら玄ちゃん用に特別シートをご用意します」
 「特別シート?」
 「ええ、玄ちゃんだけの特別シートです。ただし、十一時半までが限度です」
 「私専用のシートというのは一体どんなものなのでしょうか?」
 「十一時に店を閉店した後、店の裏に玄ちゃん用の特別席をご用意しておきます。電話でメニューを伝えておいていただければ、その時間に合わせて酒の肴もご用意しておきます。ただし、予め電話をしておいていただかなければ無理ですよ」
 えびす亭の裏は通路になっていて、人が通行できるようになっていた。そこに小さなテーブルを用意し、玄ちゃんに呑んでもらおうというものだった。
 「私が店を閉めて帰宅するのは午後十一時四十五分です。その時間まででしたら対応できます。よかったら利用してください。でも、これは玄ちゃんだけの待遇ですから、他の人に話したり、他のだれかを連れてきたりすることはできません」
 玄ちゃんは、「それでもありがたいことです」と言って、マスターに感謝した。

 その後、玄ちゃんが特別シートを利用したのは二度しかなかった。マスターの思いやりに感謝した玄ちゃんは、頑張って営業時間内に来店するようになった。
 「やればできるんですね。今まで努力が不足していたように思います」
 玄ちゃんは顔を赤らめてマスターにそう話したという。
 
 玄ちゃんの父親は認知症で、そのため玄ちゃんはずいぶん苦労しているとマスターは聞いたことがあった。その父親の症状が重くなり、玄ちゃんの目を盗んで徘徊するようになったのはごく最近のことらしい。
 ある夜のことだ。閉店三〇分前の時間に、一人の老人がえびす亭のドアの前に立って中を覗いた。マスターがガラス戸を開けて「どうぞ」と言うと、老人は「ありがとう」と言って中に入った。
 「何しますか?」
 店内をキョロキョロ見回している老人にマスターが尋ねた。老人は驚いた顔をして、マスターを見たが、何も言わなかった。
 白髪でひょろりと細い体型、長い顔を見た時、マスターは玄ちゃんの父親ではないかと思った。
 老人はカウンターの前でしばらく考えていたが、マスターが、
 「ビールにしますか」
 と聞くと、オウム返しに「ビール……」と言った。
 カウンターに置かれたビールを老人はゴクッゴクッと喉を鳴らして美味しそうに呑んだ。
 「あては何がいいですか?」
 マスターの言葉に老人はおでんを指さして、「これがいい」と言わんばかりの顔をした。
 老人は非常に美味しそうに、ジャガイモと竹輪、コンニャクのおでんを口にした。
 よく見ると老人は裸足で靴を履いていない。着ているものも寝間着のようだった。それを確認して、マスターは玄ちゃんの携帯に電話を入れた。
 「ああ、マスター。いつもお世話になっています」
 せわしげな様子で玄ちゃんが電話に出た。
 「玄ちゃん、もしかしたら、お父さんを探している?」
 「ええ、ちょっと目を離した隙に家を出てしまって……、今、必死になって探し回っているんですが、見つからなくて」
 玄ちゃんの声は絶望感に満ち溢れていた。
 「うちの店へちょっと寄ってくれまへんか」
 「えっ、えびす亭にですか?」
 「そうや。玄ちゃんのお父さんらしき人物が裸足と寝間着でうちに来て、今、酒を呑んでいます」
 マスターの言葉が終わるか終らないうちに、すごい勢いで電話が切れた。
 一〇分ほどして玄ちゃんが店に現れた。
 「父さん……」
 老人を見た玄ちゃんは今にも泣き出さんばかりの顔で老人のそばに近づいた。
 玄ちゃんは老人の腕を掴むと、「帰ろう」と言って、掴んだ腕を引っ張った。
 老人はいやいやでもするかのように首を振り、カウンターにへばりついて動こうとしなかった。
 「マスター、すみません。お勘定はお支払しますので。すぐにつれて帰りますから」
 玄ちゃんがマスターに断ると、マスターは、
 「もうちょいゆっくりさせてあげたらどない。ビールを呑むのもおでんを食べるのも気持ちのええ呑み方、食べ方、してはったで」
 「でも、今日はもう看板の時間ですし……」
 「いいねん、玄ちゃん。今日だけは特別や。お父ちゃん、呑ませてあげなさい」
 マスターが言うまでもなく、老人は二杯目のビールを喉を鳴らして呑んだ。
 その夜、マスターはほのぼのとした気持ちにさせられ、店を閉める時間を忘れるほど、玄ちゃんと老人親子に見入った。
 二人して仲よく酒を呑み、おでんを食べる。老人は焦点の定まらない目をしていたが、玄ちゃんを見る時の目だけは正気に戻っているように思えた。
 「ここへやって来たのは、私が父親にこの店のことを話していたせいだと思います。一度、来てみたかったんでしょうね。元々、酒は好きな方ですから」
 玄ちゃんの父親は、今では玄ちゃんのことすらわからなくなっていると言った。それどころか、トイレも大便だろうが、小便だろうがところ構わずし、徘徊を繰り返しては行方不明になる。廃人といった方が似つかわしい状態だったが、それでも玄ちゃんは父親が愛おしくてたまらないのだ、と語った。
 閉店時間を超えて、その日は午後十一時四〇分まで店を開けた。暖簾を下ろすその瞬間まで二人は店にいて、すっかり酔いつぶれた老人を玄ちゃんがおんぶして帰った。
 訃報を聞いたのはそれから一週間ほど経った時だ。
 玄ちゃんの父親は、玄ちゃんが眠っている夜中に起きだして、国道に飛び出てタクシーに跳ねられ、即死の状態で発見された。
 享年八十八歳、飯干幸一。元小学校教師。玄ちゃんの父親の死は、玄ちゃんに深い悲しみを与えた。
 「父は、死地を求めて徘徊していたのではないかと、事故の後、考えたりしました。認知症とはいえ、父の中のすべてが失われたなどとは思っていません。知識がなくなり、常識を失い、私の名前も顔も忘れてしまった父でしたが、ふと覗かせる父の表情にドキッとさせられたことが何度もありました」
 父を失った玄ちゃんは、ガードマンの仕事を辞め、金属工場で工員として働くようになった。すっかり生活が変わった玄ちゃんはもう「終いの玄ちゃん」ではなくなった。
 仕事を終えるのが午後六時過ぎ、その後、玄ちゃんはえびす亭に直行する。今では終いの玄ちゃんではなく、「七時の玄ちゃん」に変貌していた。
 今、玄ちゃんは新しい伴侶を得るためにせっせと婚活に励んでいる。無事、結婚に行きついたら二人でえびす亭に来ます、と玄ちゃんはマスターに宣言した。ナスビ顔の玄ちゃんだが、気のやさしいところがいい、きっとそのうち、そう言ってくれる人が現れるはず。マスターはそう信じて疑わなかった。
<了>

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