二匹の子犬と鬱と関屋さん

高瀬 甚太

 酒に酔うと途端に口調が変わる。それが関屋さんの特徴だった。
 「べらぼうめ、酒が呑めなくて人生が語れるかってんだ」
 普段はコテコテの大阪弁なのに、酔うと流暢な江戸っ子弁に変わる。関屋さんが東京出身だなどということを聞いたことがなかった「えびす亭」の面々は、酔っぱらった関屋さんを見て、いつも不思議に思っていた。

 えびす亭が最も賑わうのは午後七時から九時までの時間帯だ。この時間帯になると、カウンターは満員札止め、押し合いへし合いの状態になる。体を斜めにして立ち、酒を呑み、酒の肴を頬張り、プロ野球を語り、サッカーを語り、スポーツ談義に花を咲かせ、時によっては政治の話などして盛り上がる。関屋さんがやって来るのはいつもそんな満員御礼、すし詰め状態の時だ。
 その夜もえびす亭は、酔客であふれ返っていた。店が満員の時、マスターは新規の客が来ても「すんまへん。満員です」と言って断るのだが、常連客の場合は、「詰めたって」と言って、無理やり中に入れてしまう。呑んでいる客たちも心得たもので、隙間を開けるよう体を斜めにしてそれに応える。二〇人が限度の立ち呑みの店で、多い時は最大三〇人以上もの人が入るのだから信じられないほどの混みようだ。
 「すんまへんなあ」
 五〇歳を過ぎているとは思えないほど若々しい関屋さんは、小太りの体を客の間に無理やり滑り込ませるが、客たちは嫌がる素振りなどまったく見せず、関屋さんを受け入れる。
 「ビールでよろしいか?」
 マスターが聞くと、関屋さんは、「大瓶でお願いしまっさ」と答える。
 冷えたビールがカウンターに置かれると、関屋さんはその瓶を手に取り、両側に立つ客に、「まあ、どうぞ」とビールを注ぐ。その後、ようやく自分のコップにビールを注ぎ、両側の人にグラスを向けて、乾杯をする。
 黒々とした髪の毛と若々しい肌のせいか、関屋さんは年齢よりはるかに若く見られる。
 「関屋さん、若いですね。四〇歳と言っても通用しまっせぇ」
 と冷やかされることも少なくなかった。
 「見かけは多少若く見られても、中身はボロボロですわ」
 と謙遜する関屋さんだったが、確かに関屋さんの健康は芳しい状態とは言えなかった。血糖値が高く、糖尿病と診断されたのが去年の暮のことで、以来、関屋さんは朝夕、薬を欠かさず飲み、食事にも注意している。
 「ここで呑んでいるほとんどの客は病気持ちや。糖尿病もたくさんいてる」
 常連の菱田さんにそう言って慰められることもあるが、一向に改善しない血糖値の数値に、関屋さんは内心、悩んでいた。
 「女房さえ帰って来てくれたら……」
 そんな時、関屋さんはいつもそう思う。糖尿病が一向に改善しない、それが最大の要因だと、関屋さんは信じて疑わない。
妻の亜希子と別居してもうずいぶんになる。一日も早く一緒に暮らせないものか、と常に思っている。だが妻は――。そう思うと関屋さんの体調はさらに悪くなり、憂鬱な気分に襲われ滅入ってしまう。
 
 ――捨てられ、保健所で抹殺される運命にある犬を助け、里親を探す『里親サークル』は、男女十五名の有志で構成されており、平均年齢が二五歳と若かった。男女比は女性が九人で、男性は六人と、男性の方が少しだけ少なかった。
 サークルに参加して三年、二七歳の関屋は、この活動にもっとも熱心な一人だった。関屋は犬が大好きで、大好きな犬が捨てられ、保健所で殺処分されるのを黙って見ていられなくなって、このサークルに参加した。女性の多いサークルであったから、もしかしたら出会いがあるのでは、と多少の期待を持っていたが、三年過ぎても、その気配はまるでなかった。背が低く、小太りでルックスも、お世辞にもいいとは言えない関屋に、恋など無縁のように思われた。
 だが、関屋は、愛されていないとはいえ、嫌われるような存在ではなかった。人柄の面でいえば他の男たちより数段秀でているように見えた。
 短大を卒業したばかりの島田亜希子もやはり、捨て犬が保健所で殺処分されることに怒りを禁じ得なくて参加した一人だ。サークルでは最年少で、しかも美人であったから、亜希子に関心を持つ男たちは多かったが、亜希子は、年齢が三歳上で背が高く、ビジュアルのいい斉藤富士夫に興味を抱いていた。
 斉藤はサークルの中でもダントツに女性に愛される存在だったが、その斉藤もまた、亜希子に興味を持っており、頻繁に亜希子を誘っては二人でお茶を飲む姿が見受けられた。
 捨てられた犬の里親を探して奔走するサークルの面々であったが、すべての犬に里親が見つかるわけではなかった。里親の見つからない犬も中にはいた。そういう犬は大抵雑種で、見かけのよくない犬が多かった。ロンと名付けられた子犬などその最たるもので、さまざまな犬の種類が交じり合い、悪いところをすべて引き受けたかのような図体と顔をしていて、人気のないこと甚だしかった。
愛されていない犬は、表情にもそれがよく現れるようで、ロンもまた、常に卑屈な表情でサークルの仲間を見上げ、里親希望者を見上げ、挙句の果ては敬遠されてしまうといった負のサイクルが続き、いつまでも引き取られずに残っていた。
 関屋は、どうにかしてロンの里親を探そうと奔走した。だが、ロンは、顔だけでなく態度も悪く、時には吠えたて、噛みつくようなしぐさを見せるなど、里親希望者やサークルの仲間たちをウンザリさせた。
 斉藤などは、「こんな犬、保健所に引き渡してさっさと殺処分した方がいいんじゃないか」と公言するありさまで、それに同調する仲間も数人いた。
 だが、関屋はロンが好きだった。不細工な顔、子犬らしくない表情、スタイルだって最悪のロンを見ていると、まるで自分を見ているような気がして、何とか一日も早く里親にもらわれるようにと、暇さえあればロンをかわいがった。ロンの体を拭き、食べ物を与え、病気の時は寝ずの看病を行う関屋に、頑なだったロンもいつしか、関屋にだけは馴染み、よく甘えるようになった。
 亜希子が関屋に興味を抱いたのは、黙々と犬たちの世話をし、誰からも見放されているロンを愛する関屋の姿に興味を抱いたからにほかならない。この人は本当に犬が好きなのだ。そう思った亜希子は、次第と関屋と話す機会を持つようになった。
 亜希子と斉藤の仲は、サークルの中で誰しもが認めるものだったが、亜希子は、何度か斉藤と話しているうちに、徐々に斉藤に対する興味を失った。ハンサムで見栄えが良く、スタイルも抜群の斉藤だったが、亜希子の心に響くものがあまりにも少なかった。斉藤は亜希子と一緒の時、ほとんど犬の話をせず、そのこともあってか、犬に対する愛情を斉藤から感じることはほとんどなかった。それが亜希子には不満だった。
亜希子は犬が大好きだった。幼い頃から飼っていた愛犬は、亜希子にとって無二の親友のようなもので、子供の頃の思い出のほとんどを愛犬との生活が占めていた。愛犬が亡くなった時、亜希子は学校を休み、三日間、食事もせずに部屋に閉じこもり、両親を心配させた。それ以後、亜希子は、犬を飼うことをきっぱりと辞めた。
 捨て犬の里親を探すサークルに所属したのは、それでも、どうしても犬に対する愛情が捨てきれず、愛する犬たちを助けたいと思ったことが動機だ。
サークルに所属して、多くの犬たちと出会うことによって、亜希子は忘れていた愛犬との日々を懐かしく思い出した。サークル活動をしている中で、亜希子は、捨てられた犬の瞳に陰りがあることを知った。飼い主に捨てられ、親から引き離された悲しい境遇がそうさせるのか、その瞳にはありありと孤独と絶望の色が浮かんでいた。
 そんな犬たちも、関屋さんを見る時の目線だけは違っていた。まるで親を見るような愛しげな眼を関屋さんに向ける。そのことを知った亜希子は、関屋さんにますます興味を持つようになった。
 関屋さんの情熱が功を奏し、ある日、ロンは、老夫婦に引き取られることになった。老夫婦は、最初、他の犬に興味があったようだが、関屋さんの説得と、クィ~ン、クィ~ンと鼻を鳴らして甘えてくるロンに同情し、里親になることを承諾して引き取った。
 誰もが無理だと信じていたロンの里親が決まり、サークルの仲間たちは驚きの色を隠せなかった。ロンが引き取られたその夜、サークルの全員が集まって祝杯を挙げたのも、関屋さんの努力を称える意味合いが強かった。
 しかし、サークル全員が揃ったその席は、斉藤の不意の発言によって、まったく違ったパーティーになってしまった。
 「せっかくこうやってみんなが集まったんだ。この機会を利用して、私、重大発表を行います!」
 斉藤は、酒のためか目の縁を赤く染め、ビールジョッキ片手に立ち上がると、上機嫌で宣言した。
 「本日、この席で皆さんにご報告いたします。私、斉藤富士夫は、島田亜希子さんに対して結婚を申し込みたいと思います」
 斉藤は、向かって斜めの席に座っている亜希子に視線を向けると、
 「島田亜希子さん。私の妻になってください!」
 と自信に満ちた声で言った。
 思わず拍手が巻き起こった。この時、サークルの仲間のほとんどが、亜希子が喜んでそれを受託するものだとばかり思っていた。交際して日が浅いとはいえ、美男美女のカップルである。二人が相思相愛であることを誰もが信じていた。
 亜希子は斉藤のプロポーズに一瞬、困惑したような表情を浮かべたが、何かを決心したかのように立ち上がると、斉藤を見つめた。
 サークルの仲間の視線が一斉に亜希子に集まり、その視線はやがて、それを誇らしげに眺める斉藤の姿に移った。
 亜希子は斉藤に向かって深々と頭を下げて言った。
 「ごめんなさい。私、好きな男性がいます」
 その瞬間、「えっ!?」という声が全員の口から洩れた。亜希子が斉藤の申し出を断るなど。誰も夢にも思っていなかった。
 もっとも信じられない思いでいたのは斉藤だったろう。斉藤は、亜希子が自分を好きでいるということを、今の今まで信じて疑わなかったからだ。
 ではいったい自分以外の誰を好きだと言うのだ。冗談ではないかと疑った斉藤は、亜希子に聞いた。
 「好きな男性って……、その男性はここにいるのですか?」
亜希子は、静かに頷いた。それを見て、全員から悲鳴のような声が洩れた。斉藤以外の男性は、全員、さえない男ばかりで、亜希子に釣り合うような男など誰一人として存在しなかった。
 「そんな男、本当にこの中にいるのですか。いるのだったらいい機会だ。名前を言ってくださいよ」
 斉藤は亜希子の言葉を信じず、口から出まかせを言っていると思ったようだ。
 亜希子は一瞬ためらって沈黙し、じっとその場に立ち尽くした。言おうか言うまいか。迷っているようにも見えた。
 関屋はそれを見て、亜希子がかわいそうだと思った。結婚に踏み出せない亜希子が断る口実に口から出まかせを言い、このサークルに好きな人がいると言ったのだと関屋は思っていたからだ。
 「やっぱり口から出まかせなんでしょ。だったら、返事が遅れてもいいから、ぼくとのこと、もう一度真剣に考えてくださいよ。お願いします」
 斉藤の言葉が終わるか、終わらないうちに、亜希子は姿勢を正し、意を決した表情で斉藤を除く四人の男たちを見つめた。
 やがて、一人の男に焦点を絞ると、堰を切ったかのように強い言葉を解き放った。
 「関屋さん。私、あなたが大好きです!」
 その言葉を聞いて全員が、声を失い唖然とした。中でも一番驚いたのは関屋だった。目を見開いて、口を開けたその顔は、誰にも見向きもされなかったロンの顔に少し似ていた。

 関屋はこれまで恋など一度もしたことがなかった。大抵、報われることのない片思いばかりで、愛された記憶などまるでない。何度か親戚の勧めで見合いをしたが、うまく行かず、そのうち話も来なくなった。その自分が亜希子に告白された――。悪い冗談だと思った。でも、関屋は、それが悪い冗談だとしても内心嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、胸の高鳴りを止めきれずにいた。
 しかし、それは夢でも悪い冗談でもなかった。関屋はその後、すぐに亜希子の言葉が真実だと知ることになる。
 亜希子に告白された関屋に冷やかしと羨望の眼差しを向けて、仲間たちは「立て、立て、立って答えろ」と囃し立てた。その中で一人、斉藤だけは、居づらくなったのか、トイレに立ってしばらく姿を現さなかった。
 関屋が顔を真っ赤にして立ち上がった姿は、見るからに滑稽であった。今にも泣き出しそうな表情をして、肩を震わせ、声を震わせて関屋は叫ぶようにして言った。
 「ぼくも亜希子さんが大好きです!」
 おそらく店内にいる客たちのほとんどがその声を耳にしたことだろう。それほど馬鹿でかい関屋の声だった。
 「け、結婚してください!」
 さらに大きな声で関屋が叫んだ時、店内は一瞬、大きくどよめいた。
 関屋さんのありったけの叫びをしっかりと受け止めるようにして、亜希子が静かに言った。
 「はい」と。
 その瞬間、店内のどよめきは最高潮に達した。拍手と冷やかし、歓声が乱れ飛ぶ、その中心に関屋がいた。
 関屋は信じられないといった表情で、亜希子を見つめた。見つめられた亜希子が関屋を見て頷き、ニッコリ微笑むと、関屋は、その不細工な顔を笑みで埋め尽くし、わけのわからない言葉を吐きだし、天を仰いで、拳を突き上げた――。

 一年後、関屋は亜希子と結婚をした。結婚後も夫婦でサークル活動を続けていたが、妊娠をきっかけに亜希子がサークルを離れ、関屋だけが活動を続けた。だが、妊娠中、体調を崩したことがきっかけで流産し、亜希子は、今後、子供を持つことは困難だと医師に宣告された。それを機に、二人は、捨て犬の里親になることを決心する。
 捨てられた子犬の中に、ドンと呼ばれる、何をやっても鈍な犬がいた。始終ずっこけて、おまけに人慣れしないその子犬は、ロンの時と同様に引き取り手がなく困っていた。関屋は亜希子と話し、ドンを飼うことにした。ドンはもの覚えが悪く、動作も鈍い犬だったが、寝顔だけは飛び切り可愛かった。
 関屋は保険会社に勤めており、転勤が日常茶飯事のようにあった。そのたびに亜希子も同行していたのだが、亜希子が三五歳になった年、思いがけず妊娠が発覚した。子供を産むことは難しいと医師に宣告を受けていたこともあって、関屋と亜希子の驚きは尋常ではなかった。病院に駆けつけ、検査をしてもらうと、妊娠して三カ月を過ぎていることがわかった。
 「できるだけ安静にしているように。無理をすると流産します」
 医師の言葉を受けて、亜希子は、実家に帰って出産に備えることになった。その年、広島に転勤していた関屋は、すぐに亜希子を実家に預け、自身は単身赴任を始めることにした。
 翌年、三月、辞令が降りて、関屋は東京本社勤務となり、単身で東京に住むことになった。四月には子供が誕生する予定だった。ここまでの経過は順調で、出産を間近に控えた亜希子は、
 「早く大阪へ帰って来てね」
 と関屋のいない寂しさを訴えることが多くなっていた。
 その年の四月一日から東京本社に勤務するようになった関屋は、出産間近の亜希子からの報せを今か、今かと、心待ちに待った。
 悲報が届いたのは、四月半ばのことだった。実家からの報せを受けて、関屋は急いで帰阪した。病院に駆けつけると、亜希子はICUに入っていて、手術中だった。
 「亜希子はどうかしたのですか? 子供は?」
 矢継ぎ早に聞く、関屋をなだめるようにして、亜希子の両親は関屋を椅子に座らせると、声を振り絞るようにして言った。
 「出産の際、事故が起こって、亜希子は手術中です。生命が助かる確率は半々だと、医師が言っておりました。子供は女の子でしたが死産です」
 関屋は、目の前が真っ暗になったような感じがして、思わずその場に座り込むと、しばらく放心状態でいた。
 関屋は二週間、有給休暇を取って会社を休み、昏々と眠り続ける亜希子に付き添った。
 亜希子は一週間目にようやく目を覚ました。目を覚ました第一声が、
 「子供は……? 私の子供は?」
 だった。
 関屋は何も答えてやることができず、ただ、亜希子の手を握り締めるしかなかった。
 十日が過ぎると、亜希子はベッドに身を起こせるようになった。それでも動き回ることはできなかった。
 この時、すでに亜希子は、死産だったことを看護師から知らされていた。 無表情な顔で天井を見つめ、関屋に言った。
 「子供が生まれたら、男の子なら大ちゃん、女の子なら麻衣ちゃん……、そう付けたいなと、思っていたの」
 関屋は労わるように亜希子の片方の手を両手に抱き、
 「また、頑張ろう」
 とだけ言った。
 退院を待たずして、関屋は東京へ帰らなければならなかった。亜希子は寂しげな表情を浮かべ、
 「体が落ち着いたら、東京へ行くね」
 と言い、「見送りに行けなくてごめんね」と言った。
 亜希子が退院を果たしたのは三週間後のことだった。退院した亜希子はその後もしばらく動くことができず、実家に居候し続けた。
 関屋は、会社に事情を話し、何度か大阪へ戻してくれるように申し入れたが、聞き入れてもらうことはできなかった。亜希子の体が心配でならなかった関屋はこの時、会社を退職することを決意した。
 亜希子がひどい鬱病にかかっているとわかったのは、それからしばらくしてからのことだ。この時も関屋は、会社を欠勤して実家に駆けつけている。
全身の倦怠感と睡眠障害、ひどい落ち込み――。医師は亜希子に起きたさまざまな事例を挙げて、うつ病と診断した経過を関屋に話したが、関屋は医師の説明をどれだけ聞いても、すべて亜希子とは縁遠いもののように思え、信じられないと医師に伝えた。
 だが、亜希子の症状は深刻だった。関屋がどのように問いかけても、何を話しても、亜希子は上の空でどこか遠くを見ているような表情をして、一切、反応を示すことはなかった。
 子供を死産したことがうつ病の大きな理由と思われたが、もう一つ、入院中に愛犬のドンが亡くなったことも、亜希子の病を重くする大きな要因のようであった。
 ドンは、妊娠した亜希子が出産に備えるために実家へ帰った時、亜希子と共に実家に来たのだが、その頃から体調を崩し、ろくに食事をしない日が続いて、亜希子が病院へ入ったその日、衰弱して死亡している。
 子供の死と愛犬の死、双方の死が亜希子に与えた影響は大きかったようだ。以後、亜希子はふさぎ込む日が続き、見かねた両親が病院へ連れて行って、そこで初めてうつ病を発症していることがわかった。
 亜希子のそばに付き添ってやりたいと思い、すでに退職を決意していた関屋はその一カ月後に会社を退職した。
 大阪へ戻り、新しい住まいを用意したものの、亜希子は帰って来なかった。亜希子の実家は豊中市にあり、関屋の借りたマンションは大阪市北区にあった。亜希子の両親は、亜希子の現状からみて、しばらく今のままでいた方がいいと関屋に言い、関屋はそれを飲んで一人住まいを始めることにした。
 関屋は長年の一人住まいで、偏った食事をし続けたことで成人病を発症させた。その頃の関屋は、亜希子と共に暮らしたい。そうすれば自分はきっと健康になれる。そのことばかりを考えていた。だが、亜希子は両親の元から離れようとはしなかった――。

 酔っ払うと顔を覗かせる関屋の江戸っ子弁は、長年の東京暮らしが影響している。大阪へ帰って来た関屋は、普段はほとんど江戸っ子弁など使わないのに、少し酩酊するとなぜか、江戸っ子弁を口にすることが多かった。亜希子のいない寂しさと孤独が関屋に江戸っ子弁を多用させているのだと、解釈したえびす亭の客もいたが、関屋にとっては、そんなことなど、どうでもいいことだった。
 えびす亭にはさまざまな人がやって来る。中には見かけによらずと言った表現がぴったりくる人もいた。時折、隣同士になって話をする機会がある、菱田さんなどはその典型で、彼は、医師になどまるで見えない豪快極まりない男だが、昼間、精神科医の医師をやっている。その菱田さんに、関屋はある時、亜希子の症状を話し、相談したことがある。
 その時、菱田さんは、
 「酒の席で話すことじゃない。私のいる時、二人で病院へ来るように」
 と、関屋さんを諭し、必ず来るようにと付け加えた。だが、関屋は三か月近く、その約束を実行できずにいた。亜希子が家の外へ出ることを嫌がり、菱田さんの病院へ行くことを拒んだため、実行することができなかったのだ。
 菱田さんが関西でも有名な精神科医であることを亜希子に告げ、何とか病院へ連れて行こうと試みたが、自分が通院する病院以外の医院へ行くことを亜希子は極端に嫌がった。
 ある時、思い立って、菱田さんの病院へ関屋は一人で行くことにした。
 関屋は、病院に電話をして確認すると、菱田さんは、関屋一人での診断を快く受け入れてくれた。精神科専門の菱田さんの病院は、総合病院ほど大きくなかったが、それでもたくさんの患者がロビーや病院の通路にあふれており、人気のある病院だということがすぐにわかった。
 順番を待って、菱田さんの前に座った関屋は、亜希子がうつ病にかかったいきさつと、その後の様子を話して聞かせた。
 じっと聞き入っていた菱田さんは、関屋にある提案をした。亜希子の病気は、薬や通院ではおそらく治らないだろうと話し、子犬を飼うようにと関屋に勧めた。
 関屋は半信半疑でいた。そんなことで果たして治るものだろうか――、その思いが強かった。
 関屋はその日、病院の帰りに、『里親サークル』に立ち寄った。『里親サークル』は大阪市住之江区にあって、関屋のいた頃に比べて数倍、大きくなっていた。きっと捨て犬の数も増えているのだろう。館内に入るとけたたましい犬の鳴き声が聞こえて来た。
 関屋が顔を出すと、見知ったスタッフが声をかけてきた。数人のスタッフが関屋を囲み、話に花を咲かせているうちに、話題は亜希子のことになった。
 どういうわけか、サークルの旧スタッフは、亜希子の病気のことを知っていた。みんな、我がことのように心配し、力になりたいと関屋に進言した。
 関屋は、信頼できる医師に、犬を飼いなさいと言われたのでここに来たと話した。亜希子が犬好きなことを知っているスタッフは、捨て犬を保護している場所に関屋を案内し、あれこれと数匹を選んで関屋に勧めた。
 その中に一匹、関屋を見て、関屋の足元にすり寄って来た犬がいた。
 スタッフの一人が、その犬を抱き上げて説明をした。
 「関屋さん。この犬、人気がなくて、引き取り手がなくて困っている犬なんです」
 「どうしてだ?」
 と聞くと、
 「聞き分けが悪くて、覚えが悪く、顔がこんな顔でしょ。誰も引き取ってくれないんです」
 と困ったような顔をして言う。その時、関屋はロンやドンのことをふと思い出した。
 よく見ると、ロンにもドンにも似ているように思えてきた。
 「わかった。じゃあ、その犬、私が飼うことにしよう」
 関屋の言葉に、スタッフたちは慌てて、
 「関屋さん。他にもたくさんいますからゆっくり選んでください」
 と言ったが、関屋さんは首を振り、
 「この犬で結構です。私が大切に育てます」
 と言って、子犬を大切そうに抱きかかえた。
 その瞬間、もう一匹、同じような小さな犬が関屋の足に体当たりをしてきた。突然のことに関屋が驚いていると、スタッフが慌てて関屋に体当たりをした小犬を抱き上げ、頭を撫でながら言った。
 「この犬と、その犬、大の仲良しなんです。仲良しの犬がどこかへ連れて行かれると思って、それを防ごうとして体当たりしたのでしょう。さあ、ぺス、ボン太にさよならしなさい」
 スタッフがぺスと呼ばれた子犬の手を持ってバイバイをさせようとすると、ぺスとボン太の両方が同時に泣き声を上げた。
 結局、関屋は二匹の犬の里親になることにした。両方とも雑種で、決して見映えのいい犬ではなかったが、少しでも亜希子の心を癒し、自身と亜希子の懸け橋になってくれればいいと願いながら連れ帰った。
 その日のうちに豊中の実家へ行き、亜希子に二匹の犬を見せた。ベッドに横たわる亜希子は、関屋の腕に抱かれる二匹の犬を、最初のうちこそ興味なさそうに見ていたが、畳に下ろし、二匹を解き放つと、走り回る二匹の子犬を見る亜希子の視線が心なしか和らいできた。そのうち、ぺスがベッドに横たわる亜希子に近寄ろうと、必死になって飛び上がると、ボン太も真似て飛び上がる。何度もそれを繰り返しているうちに、ベッドの上の亜希子の腕がスーッと伸びて、ぺスとボン太をそっと抱き上げた。
 亜希子は、ぺスとボン太を胸に抱き、愛しい子供に対するように、二匹の犬を頬ずりをした。犬たちがペロペロと舌を出し、お返しとばかりに亜希子の頬を撫でた。亜希子は、くすぐったいと言って、ぺスとボン太を腕から離したものの、再びペスとボン太を抱きかかえ、愛しそうに頬ずりをした。

 一か月後、亜希子実家を離れ、関屋の家に戻って来た。鬱を克服するにはまだ、もう少し時間がかかりそうだが、ぺスとボン太に囲まれた亜希子は、少しずつ明るい笑顔を見せるようになった。
 関屋が、えびす亭で一緒になった菱田さんに、お礼と共にその報告をすると、
 「あんたも子犬と一緒に奥さんに甘えればいい。不細工な顔に三つ揃って甘えられると、奥さん、私がしっかりしなければ、そう思って回復が早まるかもしれんぞ」
 と言って豪快に笑った。
 「不細工はよぶんですよ」
 関屋はそう言って怒ったが、その顔は笑っていた。

<了>


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