伊予とジョージ

高瀬甚太

 秋になると「えびす亭」のメニューの一部が変わる。野菜を使ったメニューが一時的に増えるのだ。立ち飲みの店にしては珍しい。
 「夏の暑さを乗り越えると、胃が弱っている人が増える。そんな人のために一時的に野菜のメニューを増やすんですわ」
 マスターのそばで調理を担当しているカズさんと呼ばれる五十年配の男が客に説明する。カズさんは昼間、別の仕事をしている。店に来るのは午後五時半で、閉店まで料理を作り続ける。とはいっても立ち飲みの店だからそれほど難しい料理はない。焼いたり、炒めたり、切ったり、揚げたり、せいぜいその程度だ。料理の知識がなくても、誰にでもできる。
 秋になったら増えるメニューの一つに野菜の天ぷらがある。通常、天ぷらは五種類ぐらいで、野菜もその中に含まれているのだが、せいぜい玉ねぎとレンコン、紅ショウガぐらいで、秋の声を聞くとそれが十数種類に増える。なすび、カボチャ、タケノコ、サツマイモなど多岐にわたる。
 いつごろからそれが始まったのか、マスターに聞いても、「さあ、いつからでしたやろ…」と要領を得ないし。カズさんに聞いても首を傾げるばかりで答えが出て来ない。
 「ジョージだよ、ジョージが来ていた頃だよ」
 アルコールにでもやられたのだろうか、ひどいだみ声で声を上げたのが着流しの着物を着た健さんだ。
 「ああ、ジョージねえ、そうや、ジョージが来ていた頃に、ジョージに頼まれてメニューを増やしたんやった」
 マスターは手を叩いて、一人で頷いた。
 客の一人が、
 「マスター、ジョージって一体誰やねん」
 と聞いた。
 するとマスターは湯豆腐を作る手を止めて、何かを思い出すように目を細めた。

 ――ジョージという客がいた。四十手前で、銀縁のメガネとダークなスーツ、ブランドもののネクタイを付けた気障な感じのするお洒落な男だった。立ち飲みの店には恐ろしく不似合いの男だったが、なぜか足しげくえびす亭に通っていた。
 店にやって来ると、札幌の黒生ビールを注文し、豆腐や煮物などを食べて帰る。その間、誰とも話をすることがない。
 もちろん男の素性など誰も知らない。「売れない映画俳優だ」と言う者もおれば、「貴族の出身らしい」と最もらしいことを言う者もいたし、「すけこましだ」と言う者までいた。
 そのジョージがある時、いつもと違うスタイルでやって来た。夏ということもあって、白いスーツに白いシャツ、白いスラックス、白い靴、お洒落で気障なところは変わりなかったが、白一色に決め、ネクタイは締めていなかった。
 店に入ってくると、暑かったのか、男は白いスーツを脱いだ。白いシャツ姿の男の肌が透けてみえ、その背に入れ墨を背負っていることがはっきりと見てとれた。男の仕事がなんであるか、多くの客が理解した。
 「わぁーっ、きれい!」
 透けてみえる男の背中を見て、隣で呑んでいた伊予が大声を上げた。伊予は少し頭の足りない二十四歳の水商売の女だ。マスターが思わず「伊予ちゃん!」とたしなめた。他の客も同様に眉をひそめた。
 男は笑って、「そうかい。おおきによ」と伊予に向かって言い、伊予のグラスにビールを注いだ。それがきっかけで、伊予は男と親しく話すようになった。
 夏の終わりになって朝夕が涼しくなった頃、しばらく店に顔を出していなかった男が久しぶりにやって来た。お洒落な様子は変わっていなかったが、少し疲れた顔をしていた。
 男はビールを頼み、湯豆腐をオーダーした。男は周囲を見回して、
「マスター、今日は伊予ちゃんは来ていないのかい?」と聞いた。
 「伊予ちゃんはまだ仕事中だと思いますよ。こちらに顔を出すのは十時ぐらいです」
 マスターが応えると、男は時計をみた。
 「あと三〇分か。もう少し待ってみるか」
 ひとり言のように言って、男はビールをお代わりした。
 「マスター、この店は野菜が少なくないかね。秋口になると、夏の疲れが出て、そのせいもあるのだろうけれど、野菜が欲しくなるんだよ」
 「そうですか。お好きな野菜料理はサラダのように生ですか、それとも煮物ですか」
 マスターが聞くと、男はニッコリ笑って、
 「やっぱり天ぷらだよね」と言った。
 そこから男の天ぷら談義が始まり、その講釈があまりにも立派だったものだからみんな耳を澄まして聞いていた。
 そのうち伊予が入ってきた。伊予は男を見ると、
 「ジョージさん!」
と馴れ馴れしく呼んで男のそばにすり寄った。
 ジョージは伊予に、
「元気にしてたかい?」
と聞き、伊予が、
「うん!」
と元気よく答えると、
「そうか、それはよかった」
と言って、伊予の空のグラスにビールを注ぎ込んだ。
 伊予のおかげで、ジョージと客たちとの距離がぐんと縮まった。
 最初は男を恐れていた客たちも、やがて、ジョージと親しく話を交わすようになった。ジョージの顔の剣が取れて、穏やかな表情に変わると、ジョージの笑顔が途端に増えた。
 その夜、ジョージはしたたかに酔っぱらって店を後にした。
 翌日もジョージは店にやって来た。マスターが、
「ジョージさん、いらっしゃい」
と言うと、他の客たちも、
「ジョージさん」と親しく呼び、そのたびにジョージは嬉しそうな顔をした。ジョージはその夜も健康について一席ぶち、伊予の到着を待った。
 ジョージの話を聞いているうちに、マスターは真剣に秋口に野菜のメニューを増やすことを考えるようになった。
 「ジョージさん、うち、真剣に秋口のメニューとして野菜の天ぷらを増やしますんでよかったら食べてください」
 マスターが「来週月曜から開始します」、と言うと、ジョージは顔をくしゃくしゃにして、
「ありがとう」と言い、ビールのグラスを上に掲げた。
 ジョージは伊予を待ち、閉店近くまで二人で酒を呑んで、店の前で別れた。
 それがジョージを見た最後になった。
 翌日の午後、ジョージは所属する組事務所の手前で抗争中の敵対する組の鉄砲玉に撃たれて即死した。マスターがその悲報を知ったのは、夕方のテレビのニュースの中だった。
 しかし、それを誰にも話さなかった。店にやって来る客の中にも知っている人もいただろうが、誰も何もそのことについて喋らなかった。
 その夜も十時を過ぎて伊予がやって来た。伊予は店に入ってくると、きょろきょろと辺りを見回し、ジョージが来ていないか確かめた。
 伊予はジョージが来ていないことを知ると、がっかりした表情で、
「マスター、黒生ビール」
と、ジョージがいつも呑んでいたビールを注文した。伊予には知らせたくないなあ、マスターはその時、思ったそうだ。

 そんなわけで、えびす亭は秋口になるといつも野菜のメニューが増える。これが結構、好評なのだとマスターは語り、ところが仕入がしんどいんだよね、とぼやく。伊予はあれからしばらくして来なくなった。ジョージのことを知ったのだろうか。マスターも客も、そのことをしばらく気にかけていた。
<了>


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