文章を書くことが××『罪悪感の平穏』

 私は文章を書くことが好きです。色々なところで文章を書いています。自分のサイト、投稿サイト、SNS、note。名義をいくつか持っていてこっそり使い分けたりもしています。
 しかし、書くことが好きな反面、「特に好きではない、ただやってしまうからやっているだけ」と思おうとしている節もあります。
 今回はそれについて書いていこうと思います。

 私には、中学生ごろから「自分の感情を紙に延々と書いていく」癖がありました。
 普通のノートにシャープペンシルで、そのとき考えていること、思っていること、その日あったことなどを思いつくまま延々と書き続ける癖です。
 毎日やっていたわけではないので日記と呼ぶには怠惰すぎ、習慣と呼ぶには衝動的すぎました。

 どうしてそんな癖を持つに至ったのか。

 小学校高学年の頃に「今感じていること、思っていることを紙にそのまま書いてみよう」という宿題が出たことがあり、書いて提出したところ大層褒められ皆の前で読み上げられました。
 私は単純な子供だったので、褒められたことでその作業に愛着が湧いたのでしょう。
 そのことが「自分の感情を紙に延々と書いていく」という癖に繋がったのだと思います。
 
 感情を紙に書くという行為は思ったよりも時間を消費するもので、書いている間に一時間以上経ってしまうことはざらでした。
 当時の私にとって「一時間」というのは途方もない時間で、「一時間もあれば何でもできる」と思っていました。そのため、ただ感情を紙に書いていただけで一時間も経ってしまったという事実(書く前はいつもすぐ終わると思っており、書いた後から気付きます)は、とてもショックなことでした。
 誰に見せるでもない、発表するでもない、感情を紙に書いたって特に何もいいことはなく、私一人が楽しいだけだったので、言わば無駄な行為、「生活のおまけ」のようなものでした。
 私は「無駄なことをする」ということに罪悪感がありました。今もあります。これを読んでくださっている皆さんの中にも思い当たる方がいらっしゃるでしょう。
 誰に見せることもない、感情を紙に書くという「無駄な行為」で自分の時間を一時間以上消費してしまうことを、私はとても呪わしく思っていました。

 大学生になりPCで文章を書くようになってからもそれは同じでした。
 書くといつも無駄に時間を使ってしまうので、何かを書く行為に罪悪感を持つようになりました。

 元来、「自分の好きなことをする」のに罪の意識を覚える性格だったというのもあります。
 好きなことは人生の役に立たない、仕事にすることもできない、無駄な行為である、と教えられて育ってきました。
 無駄なことはしてはいけないという思い込み。それがここでも発動します。
 書こう、と思い立ってPCに向かい、書き切ってから時計を見てざらついた罪悪感を覚える。
 その繰り返しです。

 けれどなぜか書くことはやめませんでした。

 なぜかはわかりません。そういうことを「好き」と言うのかもしれません。
 私がPCに向かって文章を書くのを楽しみにしていたのは確かです。
 文章を書くときは何も考えずに書きます。そこからくる、何だかよくわからない、目の前にどんな文章が現れるのかわからない、無意識から生成される新たな物語に対するわくわく感は、何者にも代えがたいものでした。今もそうです。

 そのように、「感情を延々と書いていく」行為を私は「好きだからやっていた」のでしょう。
 罪悪感を少しでも減らすために「特に好きではない、ただやってしまうからやっている」と思おうとしていた、のか、実際にそう思っていたのか。本当のところはわかりません。おそらく両方なのだと思います。

 それは大人になった今も同様で、対外的には「好きだからやっている」と言ってみせてはおりますが、その実、心の中では「ただやってしまうからやっているだけ」と思っている自分もいて。
 おそらく、こういうのを「好き」というのだろうと頭ではわかっているので、コミュニケーションを円滑にするために「書くことが好き」という表現を使っています。

 しかし言葉とは不思議なもので、「書くことが好き」と言い続けていると「書くことが好き」である自分を許してもいいかのように思えてきて、最近ではそう表現することに何らかの好感情さえ湧くようになってきました。

 そうなってもなお私は、「自分の感情を延々と書いていく」ことに罪悪感を持っています。
 「発表するため」という大義名分をもって「無駄ではない」と思い込み、「自分の感情ではない」という建前をもって「創作」とし、そんな文章をこれからも定期的に生成し続けるのだと思います。

 いつかたくさんの罪悪感が薄れて消えたとき、私の創作活動がどうなるのかはわかりません。発表することをやめ、ただ書くだけになるのかもしれません。
 そうなったときが私の「創作活動」からの卒業なのかもしれません。

 しかし、願わくば、いつまでも終わりが来なければいいと思います。
 社会からドロップアウトした私にとってはこうして「創作活動」をすることが今の世界のほぼ全てであるのですから。

 今回はそんな話でした。

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