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和歌心日記 7 入道前太政大臣

花さそふ
嵐の庭の
雪ならで…


「もう何回目の春だろう」
坂口智也は会社の窓から見下ろす桜並木を見ていた。
3月になると、毎年感じる焦燥感と、次に入ってくる若者たちの姿。そして、それを見たときに感じる絶望感。
年降るに連れ、その思いは益々強くなる。

「部長、そろそろ会議です」
「ああ、じゃ行こう」
次の会議は四半期に一度の部長会議。経営課題の優先順位をつける戦略会議、この優先順位の高さがそのまま部の予算や強さの象徴となる会議だ。

坂口は自分の部門を背負っているが、最近特にふわふわとして集中できていない。役員がこの部長会のメンバーから輩出されると言うのに身が入らない。

しかし、そんな気持ちとは裏腹に、我が部は高調。部下にも恵まれている。他部門の部長から
嫉妬すら買っているようだ。

「では、そろそろ優先順位の決定に参ります」
「セキュリティ対策の強化を推される方、挙手願います」
全ての部長が手を挙げる。当たり前だ。今やそれなしには何もできないからだ。

「身の引き締まる思いです」
システム部長が頭を下げる。彼は技術者で、このまま役員になるだろう。そう言われていた。だいたいあと二人が今年の役員になる計算だが、その候補に坂口もなっている。

「次にインターネット動画配信事業の件、優先順位2番目と思われる方挙手願います」
8割が挙手した。坂口は小さくため息をついた。
「同じく身の引き締まる思いです。個人情報関連のセキュリティについてはシステム部と協力して、万全を期して臨みます」
会議の席で拍手が湧き起こった。

やれやれこれでまた忙しくなってしまう。俺はどこまで進めばいいのやら…。

坂口は背後の山影課長をチラリと見た。
彼は緊張した面持ちで頷く。
実質のリーダーは山影課長だからだ。彼にはこれからの会社を引っ張っていってもらわないとならない。

しかし、優先順位は二番手だった。坂口は十分だと思ったが、山影はどう思っているかはわからない。予算配分も二番目になるからだ。まぁそれでも十分な額だろう。

しかし、俺は何が不満なのだろうか…
自問自答するが答えがでない。

オフィスに戻ると山影課長は部内の管理職を集めて会議を行う。これから一年忙しくなることを伝えるためだ。当然坂口も参加し、最初に一言訓示と激励をしなくてはならない。
しかし、自分は叱咤激励して全員を鼓舞するような強烈なリーダーシップを取る、そんな柄じゃない。やはりそう感じていた。

「よお、マーケティング部長、元気か?お前は選ばれし部の長だからな、元気ないわけないか」
「おお、山手。いや、まぁなぁ」
「なんだ元気ないな、不倫でもバレたか?」
「馬鹿、ありもしないこと言うな」
「はは、そうだな命取りになりかねん」
「ああ」
まぁ命取りになっても、もういいんだが、いや、いっそのこと楽になるんじゃないかとすら思う。

もしかして俺は更年期か?
いや、体調に問題はない。

「それより、見たか昨日の侍ジャパン?」
「あぁ、見たよ。すごかったな。眩しいよな。なんか目頭が熱くなった」
「ほんとだよな。あんな純粋に自分を爆発させられるなんて羨ましいよ」
「昔はお前もよく爆発させてたけどな」
「それで青森に飛ばされちまったがな。はは」
そうだった。こいつは仕事がめちゃめちゃできたが、その分敵も多かった。しかし、いまは経営企画部長に返り咲いた。同期でも一番初めに役員になるだろう。きっとそれも意識してる。

それに比べて俺はどうだ?
この山手のようには喜べない。
俺もこいつと同じく、もう30年も大した休みも取らずこの会社のために働いているというのにな…。

「なんだ要件は、まさか野球のために電話してきたわけじゃないだろう?」
「ああ。ほんとはそれだけで電話したかったがな」
「天下の経営企画部長が何言ってんだ」
坂口は山手のこういう素直なところが好きだった。

「はは。ちょっと近々夜行かないか。ここでは話せない」
「ん?きな臭い話は嫌だな」
「大丈夫大丈夫、店は、あそこでいいか?」
「ああ、あのアジフライの?」
「ああ」
「わかった」
坂口は電話を切った。

「部長、お願いします」
痺れを切らした山影が声を掛けてくる。
「ああ、すぐ行く」
坂口は分厚い資料を持って会議室に入った。
アジフライ、美味かったよなぁ。坂口は会議室の席でアジフライの味を思い浮かべて、腹が鳴った。

会議は無事に終わった。部長として、これから忙しくなる部下をしっかりねぎらって激励した。皆課題の大きさに少し心配気な顔をしていたが、きっと大丈夫だろう。
しかし、坂口の気持ちは晴れなかった。

「なぁ、桜、俺のどこが好きだった?」
「はぁ?何言ってんの気持ち悪い」
家に帰ると妻の桜に自分の良さを聞いてみる。
「いや、なんとなく…」
「大丈夫?体調悪いの?」
「いや、そんなことはないんだけど」
「倒れないでよ。まだ君子も大学生なんだから」
「大丈夫だよ」

「それで?」
「うーん、どこだろう。優しいところ」
「それは、答えになってないような気がする。もう少し具体的に」
「うーん、強いていうなら、素直なところ。嘘つけないところ。善なところ…強いて言うならちょっと文学的なところ」
「なんだよそれ。まぁでもわかる気がする」
「何言ってんのよさっきから。暇なら先にお風呂入ってきてよ」
「あ、ああ」
くそ、ヒントが掴めたような掴めないような。
坂口は重い腰を上げ風呂に入った。

坂口は最近湯船に浸かることがとても気持ち良いと思うようになっていた。
サウナもいいが、自分は風呂に入りたかった。広い浴槽なら最高だ。唯一のリラックスできる場所だ。家に帰る前に銭湯に寄ることもしばしばだ。何かが閃くこともある。

今の自分の感情に何か閃きがあると良いのに…
しかし、今夜は湯船に浸かっていても妙案は浮かばなかったが、短歌を一人でに口ずさんでいた。

花さそふ
嵐の庭の
雪ならで…

なんだったっけかな。まぁいいか。

風呂から上がると恵比寿の缶ビールが置いてあった。
「あ、ありがとう。どうした優しいな」
「あなたが変だからよ。何かあったの?」
「いや、何もない。ただ…」
「ただ?」
「…また大きな仕事を任されちまった」
「あら、良いじゃない。あなた、役員になるかもね」
「あ、ああ。かもな」
「なによ、つまんなそうな顔して」
「ああ、やっぱりつまらなそうか?」
「変ねぇ。もう…でも、喜んでるようには見えないわね」
「うん。実はそうなんだ。なんだか出世に興味が湧かないんだ」
「うーん。まぁもともとあまりそんなタイプじゃないもんねあんたは。そこがカッコよかったんだけどね。昔は」
「そっか」
「とりあえず、ビール飲んで元気出しなさい」 「ああ」
こういうとき、桜は頼りになる。桜がそう言うのだからまぁいいかと思えるのだ。私の人生の最大の宝は、やはり桜なのかもしれない。

その夜、並んで寝ている桜に向かってふと口に出た。
「なぁ、桜。俺…」
「今度は何よ」
「会社辞めてもいいかな?」
「え?何言ってんの?本気?」
「え?あ、ああ。なんかふと思って。実感はないんだけど」
「何よそれ、明日起きてからまた相談してよ。よく寝て体調充分になってからもう一度聞いて」
「あ、ああ。そうだな。ごめんごめん。お休み」
「お休み」
そう言うが早いか、桜はいびきをかきはじめた。
坂口はしばらく天井をぼおっと見ていたが、やがて眠りについた。湯船で体を温めた効果だろう。

翌朝。目覚めは悪くなかった。
リビングに行くと、塩鮭と味噌汁、ご飯、納豆が置かれてある。
顔を洗って席に座ると桜が訪ねてきた。
「昨日の夜聞いたこと覚えてる?」
「ああ。いや、今すぐにってわけじゃないんだ」
「なんだ覚えてたの。正気だったのね」
「早期退職制度もあるし、まぁ路頭に迷うことはないだろう」
「まぁすぐに結論ださなくていいんじゃない?」 「そうだな」
「何か、やりたいことでもあるの?」
「うん?あ、ああ。そう言われてみるとなぁ。それもちょっと考えてみる」
「ほんと、鬱病だったら言ってよね。病院行かないと」
「いや、そういう感じでもないんだよな」
「まぁいいわ、早く食べて、しっかり行ってきなさい」
「うん。今夜ちょっと山手と飲んでくるから、夜ご飯はいらないよ」
「へー。珍しいわね。愚痴でも聞いてもらいなさい、同期なんだから。あ、でもライバルなのか」
「まぁ、そんなんじゃないよ」

桜はそれには返事をせず、君子の朝食を作りはじめた。
坂口は朝ごはんを食べ終え、着替えると、ちょうど起きてきた君子と挨拶をして家を出た。

君子はもう大学生三年生、まもなく就職活動をするのだろう。俺のようにはならないように伝えておかなくては…。

「部長、朝一に山手部長からお電話がありましたのでお掛け直しお願いします」
「ああ、わかった」
なんだ朝っぱらから。坂口はパソコン電源を入れて、コーヒーを飲みながら一息つくと山手に電話をかけた。
「おはよう。元気か?」
「どうした朝っぱらから、良くない知らせは聞きたくないぞ」
「まぁそう言うな、ちょっとこっちにこれないか?」
「ああ、わかった」
しかし、きな臭いな。坂口はしぶしぶ山手のいる経営企画部まで出向いた。

「悪いな坂口、ちょっとこっちに」
そういうと山手は手招きして、奥の応接室に坂口を呼んだ。
部屋に入ると、常務の長内が既に座っていて、その横に長内と同じ年齢ぐらいの身なりのきちんとした男とその横に彼の秘書のような切長の眼の女性が座っていた。
多少面食らった坂口だったが、すぐに居住まいを正した。
「長内常務、呼んでまいりました」
「おお、悪いな朝から坂口くん」
「あ、いえ」
坂口が部屋に入ると山手がドアを閉め、初老の男と女性が立ち上がり、名刺を出す。
坂口も慌てて胸の内ポケットから名刺を二枚出して交換した。

「榊原です。よろしくお願いします」
「日下部です。よろしくお願いします」
「どうも、坂口です。こちらこそ」

サテライトデータソリューション株式会社 代表取締役 榊原 修

サテライトデータソリューション株式会社 データ研究部 サイエンスマネージャー 日下部奏恵

とあった。

聞いたことある会社名だな。どこだったかな…

「すまんな坂口くん。今回のプロジェクトを実行するにあたり、彼らの力を借りることがありそうなので、先に紹介しておこうと思ってな」
「そうですか、であれば山影課長も呼んで来ますよ」
「いや、いいんだ君だけで。まぁ座りなさい」
「はい。わかりました」
わけがわからない坂口だったが、常務の取りなしでとりあえず皆が席に着いた。

「今日ご挨拶の機会を設けたのはな、我々の動画配信プロジェクトが既にどこかで情報が漏れているみたいでな、誰が流したのかは知らないが、広告大手の白銀社が同様のサービスを提供しようとしているらしい。それで、彼らだが、白銀社経由でその話が来て、少し前にもうちからも話が来ていて、どーなっているのかということで、大きな話だけに、首が回らなくなる前に真相を確認しようと言うわけだ」
「なるほど、まさかうちはこの前正式承認されたばかりですので、漏れるも何も、そんなあやふやな情報で白銀社がそれに先手を打ってくるとは思えないのですが…」
「いや、その通りだ。だが、こちらの日下部さんはうちの山影くんと面識がある、というより、同じ大学院の研究室の先輩と後輩て、かねてより彼からその相談されていて、なぜかその席に白銀社の社員もいたというのだ」
「え…まさか、彼が情報漏洩を?」
「信じたくはないが…サテライトデータソリューションさんもどちらと取引をしてもいいのだが、なんだか変な話なので、秘密裏に私に相談に来てくれたというわけだ」
「まずいですね、部長会で承認されたばかりなのに…」
「ああ、しかし、いきなり山影くんを問い詰めたところで、簡単に白状はしないだろう」
「うーむ」
そこで日下部が口を開く。
「おそらく山影先輩は、この動画配信事業をどうしても手がけたいんだと思います。それで会社の事業規模が小さいなら、より大きい方に鞍替えすべきだと考えているのでしょう」
「そんなことを彼が考えるタイプだったか?」
と口にしてみたが、ここの誰も知らないか。

完全にみくびっていた。どちらかというと黙々
と言われたことをこなしていくタイプだと思っていた。それを見抜けなかった自分にも責任があると感じた。

そして、それとは裏腹に、山影が羨ましいと思えた。良い歳で大胆な決断をすることができるとは。しかし、バレたら終わりだと言うのに。

「話はわかりました、山影くんから、事情をそれとなく聞いてみましょう。多分優先順位が一位でない場合には、予算も多少減るでしょうからそのタイミングで事を起こそうとしたのかもしれません」
「ああ、そうしてくれ」
話は以上だ。

坂口は会議室を出た。
すると山手が追いかけてきた。
「おい、坂口」
「なんだ?」
「おまえ、自分の状況はわかっているか?」
「ん、何がだ?」
「常務は落ち着いていたが、これはスキャンダルだ。お前が知らないのかどうかも今の打ち合わせで見られていた」
「まさか、俺が疑われていたというのか」
「そうは言わないが、確認はされたのだろう」
「そうか…」
「山影はおそらくもう終わりだ。だが、俺はお前を失いたくはない」
「俺は何も知らない。しかし、この責任は俺が免られるとも思えないな」
「…少し時間をくれ、山影を追い詰めるのも少し待ってくれ、いろいろ状況を整えてからだ」
「あぁ、焦らずやるよ」 
「頼む」
山手は応接室に戻って行った。

坂口は自席に戻ってから、プロジェクトのデータベースを調べて、山影の文書をいちいち確認していったが、特に怪しい内容はない。山影は今日もいままで通り出社している。特に変わった様子もない。

これは、もしかして、俺が嵌められているのか?常務と山手に?

常務がわざわざ経営企画部に降りてきていたのは変ではないか?普通は山手が役員室に上がるものだろう。

しかし、なんだか坂口はどうでもよくなっていた。

屋上にあがり、缶コーヒーのプルタブを開けた。
プシュッという懐かしい音がした。

屋上から下の道路を見ると、リクルートスーツを着た新入社員たちがゾロゾロと先輩社員に先導され歩いている。その上を桜の花びらが散っている。

俺はあの時、どんな気持ちで会社に入ったのだろう。何がやりたかったのだろう。
再び自問自答する。

しかし、具体的なことは何も思い出せない。なんとなく、ただワクワクしてことだけは覚えている。新しい世界の扉が開く気がしていたのだ。

いろいろな部署に異動して、いろいろな仕事をして、いろいろな人に出会った。

その途中で妻の桜にも出会った。
桜は坂口が主任時代にマーケティング講座の講義をした時の母校の大学院生だった。
会社から毎年一年マーケティング講座を任されていて、一年間坂口が講師を務めた、その手伝いでマーケティング研究室の手伝いとして桜はいた。
意志の強い凛々しい眼をしていた。
確か、その時からなんとなく大学の教授に憧れを抱いた。講師が楽しかったのだ。

しかし、それだけだった。他に大きな目標があったわけでもなかった。その後会社に与えられた課題をこなしている間に今に至った。

そして、わけもわからないまま、今自分の立場が危うくなっている。しかし、それも実感が湧かない。

まぁ責めを取らされて、左遷されるのだろう。このプロジェクトにいままで研究費を使ってきたが不祥事として世間に出る前の段階だし、実際の開発前だ。解雇まではいかないだろう。

もしかしたら、これ何かのはサインなのだろうか。
坂口はコーヒーを飲み干した。

その日の午後は特に何も起こらなかった。
当然山手との夜の席も流れた。

翌日また山手に呼び出された。
「どうやら山影は、うちの体質に痺れを切らしていたらしい」
「手続きが長いからな。老舗企業の悪い特徴だ」
「ああ、この手の話はスピード感が大事なのは確かだ。山影を呼びつけてすべて吐かせるか」
「まぁ仕方ないだろうな」
「白銀社にはどう落とし前をつける?」
「常務からあちらの常務に話をつけに行くしかないだろう」
「山影を落としてからだな」
「そうだな。よし、では日時を決めよう。常務と話してくる」
「山手」
「なんだ?」
「うちとそちらの取締役には話したか?」
「うちの方は話した」
「では俺も今から話してくる。それまで待ってくれ。場合によっては
お前も入ってもらうかもしれないが、いいか?」
「ああ、当たり前だ」
坂口は経営企画部を後にした。

山影くん、ちょっといいか?
「はい、どうされましたか?」
「ちょっとそこに入ってくれ」
「はい」
山影は動じない。大した玉だ。
小部屋に入ると山影を座らせて、対面に坂口は座った。
「単刀直入に言おう。君は今回のプロジェクトの情報を他社にもらしたか?」
山影が黙りこむ。
しばらく沈黙が続く。
「どうなんだ?黙っててもわからん」
山影は意を決したように顔を上げた。
「いえ、そんなことはしていません」
「白銀社とサテライトデータソリューションと打ち合わせをしていることは判明している」
山影の額から汗が垂れる。
勘弁してくれ、本当に漏らしたのか。なんと馬鹿な…。
「部長、僕は見ていられませんでした」
「ん?どういうことだ?」
「うちでは、もう何年も前からやろうとしていたサービスです。確か5年ぐらい前から始まっていたプロジェクトでした」
「ああ、それがどうした?」
「遅すぎたんです。いまさら承認されたところでもう時代遅れなんです」
「君、何を」
「最近、部長は変ですよ。ぼんやりしていることが多くて。僕はそれで決めました」
そう言うと山影は辞表を出した。
まさか、いや、ありえることだ。
「おい、君は勘違いしていないか?守秘義務違反を犯しているんだぞ。辞表じゃすまんぞこれは、賠償金も発生するかもしれないことだぞ」
「いいんですもう。どうでも。沙汰は家で待ちます。大きな情報は漏らしてませんから。では失礼します」
山影は部屋から出ていった。

「おい!」
呆然とした。まさか…バレていた。彼が辞めたことよりも、自分の感情がバレていたことに驚いた。

「わかった。山影くんの処分はこちらで預かろう」
「申し訳ありません」
坂口は取締役の平賀に頭を下げて謝った。
「しかし、君の責任は免れないだろう、おそらく私もな」
平賀は苦々しく顔をしていた。
「はい、申し訳ありません」
「追って辞令が出るだろう。それを待つように」
「わかりました」
坂口は部屋を出て、ため息をついた。
しかし、心が軽くなっている自分がいた。重責から解放されたような感じがした。

坂口は、その日の午後、休暇を取って、会社を出た。
パンとコーヒーを買って近くにある日比谷公園のベンチに腰を降ろした。

平日の午後だというのに、園内でぶらぶらしているサラリーマンがたくさんいた。

なんだ、みんなサボってるんじゃないか。
仕事ばかりしてきた自分がなんだか馬鹿馬鹿しくなった。

「こんにちは」
公園のベンチで声を掛けられた。
「ああ、サテライトデータソリューションの」
「榊原です。この度は私どものせいで申し訳ない」
「いえいえ、事が大きくなる前でむしろ良かったですよ。なんだか清々しい気分です。私は人を疑うことが苦手でして、その報いですかな」
「いや、それは人徳です。この後はどうなりそうですか?」
「まぁ、どこかの子会社に飛ばされるでしょう」
「それは…」
「いやいや、いいんです。今僕は考えているんです。いままで、何をしたくて働いていたんだろうとね。娘ももう大学生です。そろそろ新しい人生を始めても良いかなとね」
「と言いますと?」
「辞めようと思います」

「そんな早まらずに」
「いえ、決めたんです。さっきね。みんな午後の陽を浴びて、仕事をサボってました。いいんですそれで。僕は今の会社はもう卒業なんだろうなぁという気がしているのです。これからは僕のために生きます」
「本当に申し訳ない」
榊原は頭を下げた。
「いいんです、前から考えていたんです」
「そうですか…あの…」
「差し出がましいようですが、お辞めになった後、もし何かしたくなったら私にお電話ください」
「え?いいですよ。しばらく働く気はないので」
「勿論です。ただきっとあなたはまた何かがしたくなるはずです。その時、道が見当たらなかった場合は是非お電話ください」
「え、はぁ」
「あなたの経歴は、実は前から把握しておりまして、このまま在野に行かせるのは忍びないと思っておりました」
「買い被り過ぎですよ」
「いえ、うちの日下部が以前あなたのマーケティングの講演を聞いたことがありましてね。痛く感動していたんですよ」
「あの、切れ長の方が。へー」
「では、また」
「ええ、また」
榊原は公園を出て行った。

翌日、坂口は人事部に辞表を提出した。特に驚かれることも、残念だがなかった。そんなもんだろう。山手からは時間をくれと言われたが、もう留まる気にはなれなかった。

とてもスッキリした気分だった。妻の桜もなんとなく覚悟をしていた。幸い蓄えはある。桜もいざとなれば働くこともできる。しかし、急いで働く必要もなかった。

さてと、これから俺は何をしていこう。
大学で再び勉強するのもいい。憧れのコーヒーチェーンで働くのも悪くない、カメラを勉強するのもいい、思い切って声優にチャレンジしようか。いろいろな考えが思い浮かぶ。

なんてワクワクするんだ。
今再び、30年間止まっていた時計が動き出したようだ。
桜とまずはどこかへ旅行に行こう。フィンランドのサウナにでも行こうか。

卒業式が終わり、入社式や入学式がある。
その度に自分はどんどん古びていく気がしていた。
しかし、またこの年になって卒業式を、迎えられるとは思はなかった。
「なぁ、桜」
「何?今度は
「明日一緒に大学に行かないか?」
「今度は何?」
坂口は桜に大学のパンフレットを渡した。
「一緒に通ってみないか」
「あら、美術史じゃない。あなた好きだったっけ?」
「ああ、こう見えても美学美術史学科だぞ」
「そうだったっけ。ねぇ、どうせならパリ大学の文化史講座にいかない?」
「え?」
「いや?」
「全然嫌じゃないよ。むしろ本望だ。今までと違うことをしないと。よし、まずは…お昼でも外に食べに行こうか」
「そうね。なんだか、大学生になったみたいね」
「しばらくはいいだろう。いままで働き詰めだったんだから。もう縛るものはないんだ」
「そうね」
二人は外に出る準備をして玄関のドアを閉めた。
ビューっと風吹いて、近くの桜の木から花びらが舞い散った。

花さそふ
嵐の庭の
雪ならで
ふりゆくものは
わが身なりけり

だったな確か。我が身は確かに古くなるが、まぁでも、また新しく生まれ変わることもあるか。確か作者もこの後出世するんじゃなかったかな。

「何か言った?」
「あ、いや、こっちの話だよ」
「行くわよ」
桜、君の名前は本当にいい名だ。
坂口は前を歩く桜の後ろ姿を見てほころんだ。



花さそふ
嵐の庭の
雪ならで
ふりゆくものは
わが身なりけり

(現代語訳)
桜を誘って散らす激しい風が吹く庭。そこに散り敷くのは雪かと思う。しかしふる(降る)のは雪ではなく、実は古びていく私自身なのだ。

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