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家族愛について考えた「おばあちゃん、お元気ですか」

「おばあちゃん、お元気ですか」(「日本文教出版」2年生)

これは、主人公の「てつや」が幼少期にお世話になったおばあちゃんが、体を悪くして、今年のお誕生日に来られない代わりに、お手紙とプレゼントをもらった話です。てつやは自分の写真をメールで送り「どんなお返事くれるかな」と思っています。

内容項目は「家族愛」。

学習指導要領の内容項目における指導の観点では、「家族愛」においては
「父母、祖父母を敬愛し、進んで家族の手伝いなどをして、家族の役に立つこと」となっています。

この話…「おばあちゃん、お元気ですか」と言いながら、おばあちゃんにいろんなことをしてもらい、プレゼントをもらって喜び、メールを送って返事を期待するてつや…。一読して、おばあちゃんに「やってもらってる」ことばかりで、「てつや」って家族に全然貢献していないように思えました。

さて、おばあちゃんの喜びを通して気づく、家族の喜びって何なのでしょうか。

お手伝いをすること?

家族の行事に参加すること?

ものをあげること?

良い成績を取ること?

母と子ではなく、「おばあちゃんとてつや」の関係性を描くことにより、一般的な家族愛で語られる「家族の一員として役に立つ」「進んで手伝いをし、積極的に家族に関わる」とは違って見えます。

衰えていくおばあちゃんの描写から、命の期間がずれながらも、つながる家族との時間のかけがえのなさ(生命尊重)も感じました。

孫としての「てつや」がおばあちゃんにとって、「存在すること」だけで尊いこと、「その成長を見る」だけで喜びがあることなどが分かってきました。
その成長とは、てつやが小学生として元気に生活すること、自分で話したり、字を書いたりできるという、ささやかで当たり前の日常を感じることだったのでしょう。小さな頃は、たどたどしかったてつやの話し方が、しっかりしたものに変わっていく、それを感じることが喜びなのでしょう。
それが分かった時、じゃあ、てつやは、何をすれば良いのでしょうか。自分自身で日々の生活に取り組み、成長すること、その姿を見せることこそが、家族を喜ばせることにつながるのだと気づくことなのだと思います。

話は変わりますが、私の義母は、ずいぶん前に、がんで私の子供が3歳の時に他界しました。孫が可愛く、1時間半かけてわざわざ会いに来ることも多かったのですが、病気が発覚し、会いにこられなくなりました。その時、どれだけの寂しさを抱えていたのか、今になってようやく分かる気がします。その義母が最期に残したメッセージの1つは、「中学生になった〜(子どもの名前)の姿を見たかったな。」というものです。当時、親の私でさえ当時3歳の子供が中学生になった姿なんて想像がつきませんでした。その言葉に、家族への大きな愛、成長を見守ることの大きな喜びが隠されていることに、改めて気づかされました。

自分の親というのは、親としての人生を一度乗り越えているからこそ、見える世界や喜びがあるんでしょうね。
私だって、子供の存在や成長を大切に思っているのに、日々の生活の「しなければならないこと」「してほしいこと」「目の前の心配ごと」に埋もれて、その存在の素晴らしさを確認することを怠りがちです。そう、そして、私自身も子供や親の家族によって支えられ、存在を確認しているのです。

改めて、親として、目の前の当たり前の子供なりの成長の姿を見ることができることに喜びを見つけていきたいと思いました。

「学習指導要領『特別の教科 道徳』解説編」を読んだら、「父母や祖父母が家族の成長を願い、無私の愛情で育ててくれる様子に気づくこと」から敬愛の念が育つとズバッと書いてありました。書いてあることの意味を実感するって難しいですね・・・・。

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