ユピテルとセメレ

「そういえばギリシャ神話ってなんだっけ?の会」に寄せて<予習編・前編>

※今回は、記事の立ち位置がちょっと特殊になります。

今度の週末(6/29)に、友人の舟之川聖子さん(せいこさん)「そういえばギリシャ神話ってなんだっけ?の会」を開きます。

きっかけは、一昨年から聖書について学んできたというせいこさんの「次はギリシャ神話に学んでみたい」というSNS上での発言、そしてそれに私が反応したことでした。聖書もギリシャ神話も、美術・文学・音楽などにおいて非常に重要なモチーフとなっています。でも私たちにとって、ヨーロッパの文化や芸術の基層にある聖書やギリシャ神話はややなじみのないもの。そのため、奥深いところにある魅力や意味を十分に読み解けていないのではないでしょうか。その理解を少しでも深めるための教養を、一緒に話しながら学ぼうというのが、この会の趣旨です。

私は、神話の専門家でも何でもありませんが、学生時代に神話の比較研究というものを齧った経験があります(研究というのも恥ずかしいレベルですが)。そこで、講義ではなく、参加者みんなで話し合うための枕としてのお話をするという形で、ガイド役を務めさせていただくことになりました。

さて、いざどんなお話をしようかと考えてみると、あれやこれやでちょっと盛りだくさん。そもそも、ギリシャ神話の神々はあまりに数が多くかつ複雑すぎて、なじみのない人にとっては謎の呪文でしかありません。ある程度ご存知の方にとっても、簡単に整理をして事前に目を通していただいていれば、当日の会をより集中して楽しんでいただけるでしょう。そこで、今回の会に関わる話の一部を、事前に記事のかたちで共有することにしました。

今回の会は、主催者含めて8名という小さな会(受付済)。ただ、それは場の目的を考えての少人数制であり、私がお話しする内容をクローズドにしたい気持ちはまったくありません。そこで、事前に共有する内容を、このnoteの記事にて公開したいと思います。そしてこのnoteですから、やはり本の話と絡めつつ

長い前置きになりましたが、では本題に入ります。


「美術・文学・音楽などにおいて、ヨーロッパの文化や芸術の基盤となっている聖書やギリシャ神話」ということを述べましたが、まずはその具体的なものを見ていきましょう。

まずは絵画から。誰もがご存知の、ギリシャ神話をモチーフとした絵画といえば、やはりボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」でしょうか。

サンドロ・ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」/ウフィツィ美術館(フィレンツェ)蔵
※画像については、Creative Commons のものを使用(以後同)。

ヴィーナスは英名で、ギリシャ神話ではアフロディテ(ローマ神話ではウェヌス)。「美の女神」としてご存知の方も多いでしょう。ボッティチェリのこの絵画に描かれた女神も、まさに美の象徴と言うにふさわしく、その優美さに感動を覚えます。

せっかくですから、ここにギリシャ神話の情報を織り込むことで、もう一層深くこの絵を味わってみたいと思います。まずこの絵は、いったいどのような場面を描いたものなのでしょうか。アフロディテとは、「アプロス(泡)」にちなむ名前です。天空神ウラノスの性器をその子クロノスが鎌で切り落とし、海に投げ捨てたところ、そこから湧き出た泡から生まれたのがアフロディテと伝えられています。周りに描かれているバラの花や貝殻(ホタテ貝)は、いずれもこの女神を象徴するものです。

そうして海の泡から生まれたアフロディテを、西風が運んでいきます。画面左で口を膨らませ、風を送っているのは、西風の神ゼピュロス。ギリシャ神話において、西風は春、豊穣の季節の訪れを象徴するものでもあるそうです。バイク好きの方であれば、カワサキの「ゼファー」をご存知かと思いますが、その名前もこのゼピュロスに由来しているんです。

さて、そうして海で生まれたアフロディテがキュプロス島にたどり着き、大地に足を踏み入れると、美しい花が咲き乱れ、緑が生い茂ったといいます。生まれたままの姿のアフロディテに、衣を用意して迎え入れるのは、時・季節の女神ホライ。こうして神話の世界にやってきたアフロディテは、天上の神々の元へ行き、神々はその美しさに心を奪われることになります。そんな美の女神の生まれ出る瞬間を描いたもの、という背景がわかると、より実感をもってこの絵画の魅力を味わえるのではないでしょうか。

続いては、つい昨日まで、パナソニック汐留美術館で展示が開催されていたギュスターヴ・モロー「ユピテルとセメレ」(私事で恐縮ですが、モローの絵画が大好きで、学生時代の旅でパリに滞在した際に、彼が実際に住んでいた家を改装して作られたギュスターヴ・モロー美術館を訪れたことがあります。今回の展示では、その美術館の様子も見ることができて、非常に懐かしく、嬉しい経験ができました)。

代表作「L’Apparition(出現)」をはじめ、聖書やギリシャ神話をモチーフに数多くの手がけたモロー。そのモチーフの詳細を知らずとも、その劇的な画面構成に心を奪われることと思いますが、もう一層深いところまで読み解くと、その魅力が一層増すのではないかと思います(ですので、「サロメ」についてもぜひ。合わせてオーブリー・ビアズリー画の「サロメ」なども)。

ギュスターヴ・モロー「ユピテルとセメレ」/ギュスターヴ・モロー美術館(パリ)蔵

「ユピテルとセメレ」、まずは絵画を見てみましょう。モローらしい、神秘的なモチーフが細部に至るまで精緻に描きこまれた、象徴主義的な作品です。荘厳な玉座に鎮座する主神と、その下方に散在する神・精霊的なものたちの姿が描かれた様子からはキリスト教的なイメージも、また(L’Apparitionとも共通する)エキゾチックな装飾からは東洋的なイメージもうかがえます。

ローマ名ユピテル、すなわちギリシャ神話におけるゼウスをご存知の方は多いでしょう。ではセメレとは誰か。ギリシャ神話において主神的な存在であるゼウスは、正妻である女神ヘラのほかにも、数え切れないほどの女神、妖精、そして人間の女性に(男性も?)手を出し、その女性たちとの間に子を設けます。テーバイの王女セメレもその一人でした。

ゼウスはセメレのもとを度々訪れ、やがてセメレは子を宿します。すると嫉妬に駆られたヘラは、セメレを殺そう策を練ります。セメレが信頼する乳母に姿を変え、「本当の神ゼウスであるならば、その真の姿を見せてほしい」と願うように勧めました(言葉巧みに、神々さえ背くことのできない誓いの慣習を利用して)。困惑したものの、誓いを破ることのできないゼウスは、雷の神であるその正体を現します。人であるセメレは、その灼熱に耐えることができず、焼き尽くされて命を落とすのでした。

モローの「ユピテルとセメレ」は、ゼウスがその真の姿を現したまさにその場面を描いたものです。神々しいゼウス(ユピテル)の威容を目にしたセメレは、その正体を見て、目を見開き驚愕の表情を浮かべていますが、脇腹から血を流し、もはや死にゆくところです。ゼウスの背後に隠れるようにいるのが女神ヘラ。そして、ゼウスの下方、血に濡れた剣を携え座っているのが「死」を擬人化した存在、その隣にはゼウスを象徴する動物であると、山羊の足を持つ牧神パンがいるとされています。

ところで、セメレのおなかにいた子供はどうなったのでしょうか。画中のセメレの下をよく見ると、背中に翼のある顔を覆った人物が見えます。モロー自身の発言も含めて複数の解釈があるようですが、これがゼウスとセメレの子、その後オリュンポス十二神に数えられることになるディオニュソスであるとも言われています。ゼウスは、亡くなったセメレから胎児を取り出し、自らの太腿に縫い付けて育て、やがて生まれてきたのがディオニュソスであると神話では伝えられているのです。

多義的な解釈のできる作品ではありますが、ゼウスとセメレの神話についての知識を持っていることで、鑑賞の幅がだいぶん広がるのではないかと思います。

絵画のほかにも、文学、音楽、映画など、芸術においてギリシャ神話のモチーフはさまざまなところに、さまざまな形で取り入れられています。文学を例にとれば、ダンテ「神曲」における冥府の川アケローンとその渡し守カロンや、シェイクスピア「マクベス」3人の魔女のように、ギリシャ神話に登場するモチーフを、その象徴するものを巧みに利用しながら取り入れているものがあります。ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」は、全体がホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の物語・構成を換骨奪胎して作り上げられた異様な作品です。こうした作品をより深く堪能するためには、やはりギリシャ神話についての教養は欠かせないと言えるでしょう。

それは、芸術の分野にとどまらず、日々の生活文化の端々にも及んでいます。

惑星の名前を見てみると、水星(英 mercury):メルクリウス=ヘルメス、金星(venus):ウェヌス=アフロディテ、火星(mars):マルス=アレス、木星(jupiter):ユピテル=ゼウス、土星(saturn):サトゥルヌス=クロノス、天王星(uranus):ウラノス、海王星(neptune):ネプチューン=ポセイドン、冥王星(pluto):プルート=ハデスと、ギリシャ・ローマ神話にちなんだ名前が付されています(※冥王星は現在、太陽系惑星からは除外)。また月(luna):ルナ(ディアナと同一視)=アルテミスの名もあり、木星の衛星イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストなどはいずれもゼウス(木星)の寵愛を受けた存在の名前です。

そして、上記からすぐにわかるように、曜日の名前にもその名残が伺えます。英語だけでなく、フランス語やスペイン語、イタリア語などのラテン系言語ではいずれも。

そのほかにも、元素の名称植物の名前など、自然界にあるものにはギリシャ神話に由来する名やエピソードを持つものがたくさんありますし、なかなか意識することはありませんが、日常の語彙に溶け込んでいるものも。地図帳のことを「アトラス(atlas)」と言いますが、これはギリシャ神話において天空を担いでいた巨人のアトラスにちなむものです。また、日本での配備の問題を巡って……な状況のイージス艦ですが、「イージス(Aegis, Egis)」とは、戦いの女神アテナが持つ悪を寄せ付けない防具のこと。形状は楯とも、胸当てのようなものとも伝えられています。この由来を知ると、なぜ戦艦にこの名が与えられたのかも納得がいきますね。

こうした日常の語彙に取り入れられたモチーフについては、芸術のように知っていなければ楽しめないとか、生活の上で困るようなことはありませんが、自分たちの生活の基盤を為す文化として認識しているかどうかで、同じ言葉や概念を考えるときに、受け取るものは変わってくるのではないかと思います。

以上、まずはヨーロッパの芸術、あるいは生活文化のなかに潜むギリシャ神話のモチーフについて、導入として見てきました。すでにお気付きかと思いますが、ギリシャのほかに「ローマ」への言及が多々見られるかと思います。ヨーロッパの文化の基層にあるのは、ギリシャ神話というよりも、「ギリシャ・ローマ神話」というほうが実態に近いかもしれません。

より狭い定義でのギリシャ神話の原型が形作られたのは、紀元前8世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて、ギリシャ各地にポリスという都市国家が成立し、民主制による政治が行われるようになっていった時代と言われています。この頃の神話は、当初は文字に書かれたものではなく、口承で伝えられたものでした。それが現在、まとまった形で伝えられているのに大きな役割を果たしたのが、ホメロスヘシオドスという2人の著名な詩人の存在です。

というわけで、最後に少し本の紹介を。

ホメロスといえば、『イリアス』『オデュッセイア』

『イリアス』とは「イリオン(トロイアの別名)の物語」の意味で、神々の仕掛けたとある事柄から始まったトロイア戦争における英雄の悲劇を描いた長編叙事詩。『オデュッセイア』は、トロイア戦争にも参加した英雄オデュッセウスの遍歴の物語です。後者については、先ほども挙げたジョイスの『ユリシーズ』と対照させて味わいたい作品です。

ヘシオドスは、『神統記』『仕事と日』

『神統記』は、原初の混沌から世界が生まれ、ギリシャ神話の世界観が形作られるまでに神々の闘争の記録を描いており、ギリシャ神話の体系を今に伝えるものと言えます。一方、『仕事と日』では、神話の世界と人間がどのように関わっているのかを示す「5つの時代」のエピソードなどが語られます。

いずれも詩の形式で、もともとは口承で受け継がれたもの。確固とした一つの物語世界を示すものではありません。また、そこに描かれた神々の姿や挿話は、現在、私たちになじみのあるギリシャ神話の物語とは必ずしも重なりません。

原点とも言える古代ギリシャの詩の言葉が、どのような過程を経て、現在のヨーロッパの文化における基層的なものに変遷していったのか。そのあたりの経緯については、実際に会の場で触れられればと思っています。

今回の記事の、特に美術を中心とした芸術とギリシャ神話の関わりについて、主に参考にしたのは次の本です。

吉田敦彦『名画で読み解く「ギリシア神話」』

呉茂一『ギリシア神話』(上下)

フェルナン・コント『ラルース 世界の神々・神話百科』

吉田敦彦さんの本以外は、会に参加いただく前に気軽にお読みいただくタイプの本ではありませんが(笑)、ご興味ありましたらぜひ。また、このあとにもう一本公開する(予定の)記事にて、より気軽にギリシャ神話について学ぶことができる本もご紹介しますので、ぜひそちらもお楽しみに。

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