夢を捨てる意義。

こんにちは、じょーくんです。

今回のテキストは、人生哲学です。完全なる僕の経験と体感で書いているので、独自の表現がでてきます。よって逐一理解、解釈するような読み方では疲れてしまうと思われます。言葉、表現の先にある意図や原体験を感じるように、全体を流れるように読んで頂ければ、これ以上嬉しいことはありません。


プロローグ

―夢も何もなくただ漠然と生きていた人間がいた。彼は生きる意味を求めて四苦八苦していた。やがて、夢という生きる意味を見事手に入れ、活き活きと生活するようになる。これで四苦八苦は終わったように思われた。今日までは。



社会の秩序から片脚を踏み出してから、ちょうど一年が経つ。去年12月にインドから帰国した頃の感覚は、未だ身体に染み付いている。これまで長らく、自分の人生について、一日たりとも欠かす事なく考えてきた。いや忘れる事が出来なかった、という方が適切だ。

去年、僕は一年間海外を放浪していた。その旅の中で、僕は僕にとっての『生きる意味』を見出し定義した。長いプロセスを省いて結論を言えば、『何か新しい価値を創造する事を通して、世界を前進させる』になる。
この”意味”という名の薬により、いわゆる『夢が見つからない』と嘆く若者特有の漠然な悩みや虚無感は解消された。 

しかし、それは同時に諸刃の剣でもあったように思う。現状に対して高すぎる目標は、今この瞬間に存在する未熟な自分にとって、あまりにも儚い幻でもあり、完璧主義な性格も相まって時に自分を苦しめたからだ。
そんなことを経ると、僕は次のような考えを抱いた。

『人生に意味を定めるという行為は、本来存在しないものに、勝手に幻を見出す事であるから、別に何だっていい』


ここで一度初心に帰り、”意味”という概念について考えてみる。

第一に意味とは、解釈されたカタチを指し示す概念である。次に”意味”というものには、万物共通の普遍性は存在しないと僕は考えている。普遍的、絶対的な正解があるとすれば、僕はそれを本質や真理と呼んでいる。そうなると”意味”というものは、いくらでも、どんなものでも人により多様なカタチで解釈されることでしか生まれないものであると言えよう。

誤解を覚悟で言うと、『絶対的な意味なんか存在しないのだから、人それぞれが自由に定義するしかないよね』ということだ。


ここで今一度、話しを”生きる意味”へと戻そう。

22歳の僕は、考え続けることで、”生きる意味”を、70年や80年という長い人生スパンの中に捉えた。その瞬間の解放感は今も体に染みついている。私の歴史の中では、それは第一次精神大革命だった。


哀しいかな革命後の清々しい環境も、永遠ではない。時が経てばまた停滞が生じ、新たな革命を求める。人間とはそういうものだ。

同じように、人間である僕は耐え難い停滞に直面していた。


生きる意味を見付け、活き活きしていた22の若僧は、気付けば老人のように二階の書斎で人生を語りながら、外の世界のお祭りを、冷笑的に見下ろしていたのだ。そこに活気はなく、目は死んでいたと思う。


問題は、僕自身が、これまでこの事実に気付かなかったという事だ。
僕の視野が狭かった、と完結してしまえばそれまでだが、こんな風に若者を老人にさせる力が、『人生哲学』や『生きる意味を見出す事』のプロセスに潜んでいるのもまた事実であるように思う。


''二階の書斎から下を見下ろす老人''になった瞬間に、世界は暗くなる―。


世を見渡せば、暗い世界を生きている人は少なくない。というより無意識的な人も含んで言えば、一部の聖人を除く全ての人が暗い世界の中にいる。その違いは、意識的か無意識的かのみであろう。

忘れるための週末の酒、ギャンブル、恐ろしく整えられたレジャーの数々。これらの存在が、人間に普遍である無意識的な虚無を物語っている。この虚無を誤魔化せるのは、レジャーか、知的な意味付けのみであろうか。

こう自分に問うたその瞬間、第二次精神革命が起きた。

『生きる意味を見出すのに尽力して、他を疎かにするのは辞めよう』

つまり僕は、”夢を捨てた”のだ。意味というものは、行動する前に先立って机上で生み出すものではなく、無意味の中で、ただそれに関心を持ち、無意味に行動した結果として現れるものなのだ。さっき言ったように、意味は後に付随する解釈でしかないのだから。

回りくどくなってしまったが、要は『自分の魂が導く方向へと、無条件に進む事』が、最も人間原初的な''生きる''という事だと気付いたのである。


一度でも''生きる意味''なるものを大真面目に考えてしまった人間は、無意識的な人がそうするように、盲目的なレールに乗る事は出来ないだろう。
『良い大学に入るための高校』『良い就職先に就くための大学』『幸せのための結婚』
本来、何をもって''良い''としているのかを、明らかにせずとも、自然体で自分の魂に従い突き動く人もいるだろう。

しかし、それが出来ない僕のような人―客観的な''良い''に支配されていて、本来主観的である''良い''については考えた事すら無かった人―は、考えるより仕方ない。


ー生きるとは、魂の命じるままに、意思決定をし、魂の命じるままに動く事。意味はその結果として後から生じるのだから初めから考える必要は無い。常に、今この瞬間を感じて、ただ生きるー これを僕は『創造的な生き方』と呼びたい。


若僧は、外の世界にアグレッシブに飛び出し、エキゾチックなジャングルの中で、色々なものに触れ、経験する事が重要だ。そこに意味は必要ない。必要なのは、少しの勇気と、無目的な好奇心だけである。


”意味”は、ある意味牢獄である。意味、目的に縛られる事は、そこから外れる無限の可能性に対し盲目になるという事でもあるからだ。意味は世界を狭くするという性質があるのである。


もちろん、世界を狭くするという事自体に、良し悪しはない。しかし、もしあなたが僕のように、『意味がないと動けない病』にかかってしまった時には、一度意味を捨ててみると何かが見えるかもしれない。



じょーくん

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