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ハレとケを取り戻せ!

私が記事を書き続けているのは、日本人に日本人としての心を取り戻してほしいという復古主義的な思想が支えている。(最近書くこともなくなってきたので正直どうしようか悩んでいるのだが。)

復古主義と保守思想は似ているようで異なるものらしい。

それは良いとして、ハレとケについてどれくらいの人が知っているのだろうか。

ハレとケ

ハレとケは、「晴れと褻」と書き、

ハレ=非日常、年中行事(例えばお盆)、祭りや冠婚葬祭など(諸説あり)

ケ=日常(それ以外の普通の日)

をそれぞれ指している。

現代日本人では、かろうじて「晴れ着」や「晴れの日」として聞き覚えがあるだろう。

数年前に起きた振袖レンタル企業「はれのひ」の営業停止騒動が記憶に新しいが、ハレとケの消滅に象徴的である。日本の文化が完全に商業に飲み込まれ、しかもそれが崩れ始めたのだ。「はれのひ」という名前もなんと皮肉なことか。

かつての日本では、ハレとケを明確に分けていた。食べるものも器もきっちり分けていたらしい。

これまたいろいろな商業的な思惑に汚染されているが、年明けにお餅を食べたりお屠蘇を飲むのもその名残なのであろう。

闇なくして光なし

光が燦然と輝くのも、闇という対比物があってこそだ。

暗いトンネルを出るときの光の差し込みはどれだけ眩しいことか。

私たちは2つの極を設けることで世界を認識してきた。善と悪、陰と陽、まさに地球上のあらゆる文化圏で同様の構造を取っている。

極があるから分類しやすいのだ。

ケの軽視(ダジャレじゃないよ)

晴れの日は特別であった。しかしそれはケの存在が常にあったからだ。

夏休みは終わりが来るから楽しいとはよくいう話だ。(学生なので絶賛夏休み謳歌中である)

しかしそれぞれがだんだんと同質化していったしまったように思う。それはなぜか。

大きな要因は欲望であろう。

自分が来ている服が、自分を表現するツールとなってから、日常的に着飾ることが当たり前となった。

加えて、かつてのハレの日はある種豪華な1日になる。食事もまた豪華なものになる。

戦後、日本人の生活環境が改善され贅沢をする余裕が出てきた。そうすると、日常的に食事の質が向上することになった。

そうすると、だんだんとケの生活が軽視されていったというのは納得できる。(当然戦後以前からその兆候はあったのだろうが、どこが始まりかという問題はナンセンスだ)

軽視されていってしまうのも当然だ。闇はそれ自体は忌避されるべきものであるからだ。

しかし一方で、闇は必要な存在でもあった。

キリスト教において悪魔が想定されているのも、キリストをはじめとして、神の善良さを示すために反対の極が必要だったからである。

ケが軽視されてしまうと、最悪な形でその影響が出てくる。

つまり、ハレが特別な日ではなくなってしまうということである。

実際に過去の日本人がどういった精神性を持ってハレとケを考えていたのかは専門家の中でも統一されていないようなので私が何かを言ってもどうしようもない。だが、ハレとケが現代の中で廃れてしまった文化だということは疑う余地もないだろう。

例えば、今は夏の祭りシーズン真っ盛りだ。

祭りもまたハレの日なのである。上京しているような人たちには特に多いかと思うが、地元の不良は水を得た魚のように祭りに精を出す。このような姿を見下している人は少なくないのではないだろうか。何を馬鹿なことを、と。

馬鹿なのはお前の方だ、と言ってやりたい。

これを読んでいるあなたは、不良が真剣かつ満面の笑みでみこしを担いでいるときと同じくらい自分をさらけ出しているときはあるだろうか。日々を無為に過ごしてはないだろうか。

守らなければならないものがあるから、

おとなだから、

耐えなければならないこともある。と思っていないだろうか。

それは諦め以外の何物でもない。

ハレの軽視はもまた、ハレとケという2つで1つの存在を廃れさせる原因の1つとなる。

ではどうすればいいのだろうか。

ケの復権

まず、ケと向き合わなければならない。

ハレとケは、ケの消滅によって均衡を失った。

それによってハレの日の精神的な重要性さえも失ってしまった。

日々を無気力に過ごしてしまうのも、日々が代わり映えしないからではないだろうか。

何気なく、自分の毎日をハレとケに分けてみてはどうだろうか。

なにも、日本の歴史的な精神性をまねろということを言っているのではない。

日常、あるいは重要でないと考えて切り捨てていることを今一度見直そうということである。

汎儀式論(自説)

現代日本人はその多くが無宗教であると考えている。

ようするに、宗教的な行為が世俗化してしまったのだ。

結婚式や葬式、年越しやお盆など、宗教的な儀式の価値があったものが、単なる日常のワンシーンとなっている。

図式化すれば、ハレ≒ケとなってしまった。

逆に言ってしまえば、それはむしろ有利なのである。

考え方によっては日々の全ての行為が宗教的な儀式と同レベルの行為なのである。

つまり、全ての所作がハレになりうるのだ。

これはかなりの暴論だが、ともかく現代においてハレとケの感覚を取り戻すためには、何が非日常で、何が日常なのか、伝統にのっとらずとも自分で決めれば良いのだ。

区別をすること自体に大きな意味がある。

晴れ着ではなく、たまには「ケ着」を意識的に着てみるのも良いのではないだろうか。

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