ジェンダー 勘違いとの紙一重

先の記事で批判に晒されそうなことを書いてしまった。

自分の立場を理解してもらうためにもうすこし私自身の考え方を表に出したい。

前回の記事で、LGBTにおける性的指向と性自認に関して、明確な違いを設けずに論を立てた。

あまり気にしたことがない人もいるかもしれないので念のため説明する。

性的指向は即ち誰を好きになるかである。男性が男性を好きになればいわゆるゲイ・セクシュアルとなる。LGBTでいえばLGBを指す。

性自認とは、自分が誰なのかである。自分が女性の肉体で男性であるという認識のもとで女性をパートナーとするのであればレズビアンではなくトランスジェンダー(FTM=Female To Male)となる。

厳密にいえば異なる両者だが、憲法や規律を検討するときにはどちらも枠外の存在としてまとめても構わないという判断をした。当事者にとって不快であったのであれば謝罪したい。

今回はとりわけトランスジェンダーについて書こうと思う。

トランスジェンダーは異常

さて、私は身体的性=性自認であるべきだと思っている。つまり女性として生まれたのであれば自分は女性であると認識して生きるべきだと考えている。

そうでない場合は異常だと考える。

そう聞くと、当事者でない人も含めて多くの人が怒り出すのだが、異常で何が悪いのだろうか。

出る杭が打たれるような不寛容な社会で、周りの人と「同じ」であることに喜びを覚えるような「大衆」を目指しているのであれば、「異常」を認めない排他的な考え方をすればいいと思う。私自身はそうでありたくないと強く感じるが、他の人がどうであろうとも私はそれを認める用意がある。なぜそうでありたいのかは甚だ疑問だが。

異常

素敵な響きではないか。

つまらないやつだな、といわれるよりも、変わったやつだな、と言われる方が断然嬉しい。

しかも、そういう人間は人類の多様性の一翼を担っていると胸を張っていいのだ。

身体的性≠性自認は勘違い

とはいうものの、異常であるということの根拠はある。

セクシュアル・マイノリティには勘違いがつきものなのだ。

そもそも、性自認と身体的性の不一致は、かたや生まれ持った性質で、かたや社会構築されたものだというギャップから生まれるものである。

そうなのだ。性自認とは社会構築されたものに過ぎないのだ。

男と女という二元的なジェンダーの在り方はただ社会が作り出したものに過ぎないのだ(あくまでも推進派の考え)。

では、男に生まれて、自分が男ではないかもしれないと思うまでは一向に構わない。

なぜなら身体的性によって社会から期待される在り方に自分は当てはまらないと気づいたに過ぎない。

つまり、「男なんだからこうしろ、こうであれ」にたいして、「NO」を突きつけるだけだからだ。

ここで、あらためて男女のジェンダーは社会生活の中で形成されたものだということを思い出してほしい。

男でない=女 の等式は成立しないのだ。

「自分は男として生まれたけど心は女だ」と認めるためには

男でない者 から 女 への薄皮一枚の跳躍が必要なのである。それが勘違いである。

薄皮一枚だとしてもその勘違いは正当性という点で大きな意味を持つ。

しかも悲しいことに、この跳躍は結局のところ性別のあり方から抜け出たところからさらに男女の二元的な性別観に逆戻りしなければならないのだ。

社会構築された男女観を否定する一方で、その性別観に丸め込まれてしまっている。

ここまできてしまうともはや自身の身体的性別を否定して「もう片方」を選択することは現実逃避の一種でしかないのではないだろうか。

あるいはないものねだりが行き過ぎているのではないだろうか。

あなたはあなたなのだ。それを恥じることはない。

枠内にとどまるなら枠内に留まれ

伝統的な男女観を否定することは悪いことではない。新しい風にさらされることは伝統を古臭いものとして鈍らせないために必要ではある。

しかし、国にいればその国の法律を守らねばならない。

男ではなく女、の理論が通る世界で生きたいのであれば男は男として生きるという世界のルールも守らねばならないのではないだろうか。

ここで初めて障害という言葉の意味が明確になるかもしれない。

つまり、そうなってしまったのだから仕方ないじゃないかということである。

私もただシンプルに性格が良くない。人格障害の名を冠するレベルで。しかしそう生まれてきてしまったのだから仕方ないじゃないか。

そうであればそれとして自分とどううまく付き合うかを考えた方が有意義ではないだろうか。

繰り返しになるが、マイノリティをどう規定するかと、当事者とどう向き合うかは別問題である。

障害だからといって差別をするのは許されることではない。

それは差別をすることが悪なのであり、障害自体が悪なのではない。

少なくとも大多数の異性愛者と、対する同性愛者の間には大きな隔たりがある。無理やり仲間に引き入れたところでその隔たりが解消されることはない。むしろ反発が大きくなるだけだろう。

今認識されている「違い」と「ルール」の在り方にねじれも生まれてしまう。

そうであれば違いを違いと認める寛容さを持った社会を目指すのが真の包括的な解決策なのではないだろうか。

しかも、多くの政治家がLGBTを推進しているのはあくまでもリベラルな態度を見せる票集めの方法で、ただの選挙対策でしかない。当事者のことをどれほど冷静に考えているのだろうか。


次回はセクシュアル・マイノリティの在り方と希望について書こうと思う。

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