アート、art = 職人?芸術家?
まずい。まずいぞ。
はじめてnoteの他の記事を読んだ。誰とは言わないが、昨今のビジネス界においてアートを学ぶべきだという言説を批判するような内容だ。どうやら有料記事なのだが、スキの数から相当数の人間が読んでいるんだということが伺える。
何がこれほどまずいかというと、少なくとも現代の100年を生きる我々にとって、「アート」が虚飾のものであると示唆していたからだ。
それ自体、今のアートに対する社会の態度を如実に表していると思う。しかし、批判する立場の人間が根本を履き違えてしまっていることに危機感を覚える。いや、もはや社会が履き替えてしまったというべきだろうか。
なにより多くの人がそれを支持しているという事実が恐ろしい。
ということで、前回の記事では物の在り方について書くと言ったが、もう少し広げて書き連ねたい。
「アート」とは
多くの人が感じていると思う。
アートは経済的に合理的でない。
アートを楽しむには経済合理性を超え出て芸術に対する素養を持っていなければならない。
アートは、わかる人にしかわからない。
これらは完全に間違えていると言わねばならない。
また、歴史を遡ろう。
"art"の起源
日本語の「芸術」という言葉は比較的最近作られたもので、"art"に当てられた訳語である。
では、"art"はどこから来たのか。
"art"という言葉はラテン語からやってきている。(正確にはラテン語以前の印欧祖語にさかのぼるのだが…)
ローマで話されていた言葉だ。現代ヨーロッパの基盤になっていることはいうまでもない。
元々の意味はざっくりいうと
「人の手が加えられた」
という意味である。
例えば、"artificial"(人工) "artist"(芸術家) "artisan"(職人)といった派生語がある。
ここからわかることは、 今でいう「アート」と「職人」は別のものではなかったということだ。
「職人」=「アーティスト」
かつては職人が荘厳な宗教建築をしてきた。
宗教美術が我々の美的感覚を作り上げてきた。
職人の技術と芸術は本来密接に関わりあっていた。むしろ技術こそが芸術であった。
「アート」は虚飾のものではない。
虚飾であると考えられてしまったところに、現代人の精神性の衰えがある。
大量生産の弊害
物が溢れた世界に私たちは生きている。
私たちは日々の生活が豊かになったと感じている。
本当にそうだろうか。
私たち人類が100年前に使っていた道具よりも、今100円ショップで手に入る道具の方が豊かだろうか。
この世界には解決することのできない経済合理性がある。
それは労働からくるものである。一人の労働の質と絶対量には限界がある。
労働によって物の価値が担保されてきたはずだ。
(これはマルクス以前の旧来的な価値観で、現代の経済学としては否定されている。今は物の価値は絶対的な労働量などではなく主観的な判断によって決められる。つまり、先の記事で書いたように売り手と買い手に価値の差がないと売買が成立しなくてさよならバイバイとなってしまう。)
どちらも統合して考えることはできないだろうか。
価値=絶対的+相対的
ものの価値は絶対的ではない。だからこそ、主観的により価値のあるものを手に入れるためにものを売ったり、ものを買ったりするのだ。
しかし、物の価値には絶対的な下弦がある。人が労働するという物理的な行為があるからこそ、物の価値が正当化されてきた。例えば商品を船で輸送するためには時間も人件費もかかる。だから物の値段が上がる。
極限的に言えば時間こそが価値である。人件費も、その人から労働として時間を奪った対価になるものだ。
時は金なりと言われるが、まさに金の帰り着く場所は時間なのだろう。
ただ、私が1時間かけて作った器と、プロが1時間かけて作った器は考える時間が必要ないほど異なるものだ。
そこに「アート」の力があるはずなのだ。
artの分断
近代の経済学は「アート」と「技術」を決定的に切り離してしまった。
大量生産によって、モノが手に入れられるようになったわけではない。
簡単に手に入れられる粗悪なものが、過去の物の価値の下に付け加えられたに過ぎない。
ピラミッドを考えると、テッペンにある優れたものは依然として庶民の手には入らず、ただピラミッドの下の段が増えただけなのだ。さらに言えば庶民にとって、テッペンはさらに遠く、高くそびえ立つものになってしまった。これが現代の「アート」と言われるものの実態だ。
新しい革新も生まれてきている。私がこの記事を書いているパソコンも、技術革新によって手に入れられるようになった。
しかしそれも押し付けがましい話だ。生活に必要なかったものを作りました。はい、便利でしょ。と、それがなくては生きていけないように飼い慣らしてしまった。
大量生産の本質は「価値の創造」にあるのではない。
大量生産は「価値のすり替え」なのだ。
これを読んでいる人にはそれに気がついて欲しい。
縄文人が作っていた縄文土器は無駄な装飾があるのではない。
器というものが日用的な道具であるのと同時に精神性、文化性も持っていた時代の産物なのだと思う。
日常使いの道具が「アーティスティック」な作品だったのだ。
今一度、日常に「アート」を取り戻したいと切に願う。
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