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哲学において「考えすぎない」をどう扱うか

 哲学を一義的に定めるとすれば、「考える」という動作そのものに回帰する。それはちょうどデカルトが「我思う故に我あり」という洞察に至った地点を思い返せば当然の成り行きであると思われる。


 しかし、「考える」ことの実践を積み上げてきた哲学の歴史を振り返れば、そこにあるのは「〇〇は考えなくていい」というかたちの、「考えない」を適用する対象を何に当てはめるかの提案で埋め尽くされている。


 幾多の哲学者たちにとって、飽きるほど耳にした最も言われ慣れた言葉は「考えすぎだよ、きみは」だろう。その言葉に忸怩たる思いを抱きながら、結局彼らは「考えすぎるのも良くないな」という反省にたどり着く。「何事においてもやり過ぎはよくない」という単なる経験則の集積に、考えることへのプライドが高められた哲学者たちも随分苦しめられたことだろう。


 たしかに、考えても仕方がないことはこの世界にたくさんある。世界全体においてもきわめて個人的な生活においても、いますぐに答えが出せる問題の方が少ないともいえる。わからない問題に限られた時間を割くぐらいなら、ひとつ飛ばして簡単な問いから回答欄を埋めていくべきだといわれればその通りなのだ。


 そういったテストやクイズに対する心構えにも現れている通り、「考えすぎてはいけない」という提案は、「考える」ことそのものを否定するものではない。さらに強いニュアンスで「考えるな」と聞こえた場合であっても、その言葉の意味するところは「もっと違うことを考えろ」ぐらいに受け止めるしかない。本当に何も考えない状態の人間ほど危うい存在もいないのだから。


 ギリシャ由来のいわゆる西洋哲学に沿ってものを考えていると、「そんなことは仏教がとっくの昔に答えを出している」や「哲学者の誰々は禅に衝撃をうけた」といった東洋思想との比較に度々出くわす。その都度、またそれか、と少しだけウンザリするわけだが、重箱の隅を楊枝でほじくるような「細かい議論」を持ち出してくる西洋哲学の繊細さに嫌気が指す気持ちというのも確かにあり、それに比べ、ある種の「適当さ」を備えた東洋思想のことを羨ましく思ったりもする。


 冷戦の崩壊以降、それまで信じられてきた知性や理性といった人間の「考える」という性質は徹底して見直され、今では「人間は考えるとロクなことにならない」という主張のほうが通りやすくなっている。


 その結果として「人間はみんな考えなくなる」のであればそれはそれで構わないのだけれど、今のところ一般的に共有されているのは、「依然として人間は考えているが、考えたことをひとに教えるとロクなことにならない」という感覚だろう。


 「考えすぎだよ、きみは」という助言のようで助言たり得ない言葉は、純粋な思いやりの心から発せられる場合もあるにはあるが、時と場合によっては、自らが考えた有意義な洞察を、決して目の前の相手には譲るまいとするきわめて「セコい」戦略として発せられている可能性もある。もし、真剣に悩んでいるひとに対してマウント合戦を仕掛ける精神があるとすれば、それはもっとも改善すべき態度であると思われるが、いわゆるポジション・トークが「考える」ひと同士の連帯を分断しているのは明らかである。


 自分の中だけで磨き上げてきた言葉が、いつしか「私的言語」になって破綻してしまうことに気がついていない彼らにも、自分にとって重要な問いかけをひとにさらけ出したときに「考えすぎだよ、きみ」と返されるときの寂しさを知る時はいずれやって来る。せめて、それ以外の言葉で返すことができるように心構えしておきたいものである。

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