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たくさん本を読み、その内容をほとんどすべて忘れてしまった最終学歴ミニミニミクロ電子幼稚…

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たくさん本を読み、その内容をほとんどすべて忘れてしまった最終学歴ミニミニミクロ電子幼稚園の主席が、残り少ないブドウ糖を消費して書くひとりごと。好きな科目は音楽と図工です。

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哲学カフェのアップデート

 哲学とはなにか。この問いに対する考え方は色々あるが、とくに「自分の頭で考えること」という最もシンプルな行為を出発点にして考えてみたい。  「自分の頭で考えること」──みなさんは1人で考え事をするとき、どのような場所に足を向けるだろうか。  熱いコーヒーを片手に自宅の書斎のドアをそっと閉じるひともいるでしょう。あるいは仕事を終えたその足で、眠れぬ夜の雑踏をあてもなく歩き始めるひともいるかもしれない。  色々なひとがそれぞれに日々色んなことを考えなければならないのが、現代

    • ビューティフル・ドリーマー読解2

       以前書いた記事『ビューティフル・ドリーマー読解』 の中で、この作品には未だ汲み尽くされない解釈可能性が含まれていると記した。今回はその一端を「哲学的ゾンビ」の議論と繋げて解釈してみようと思う。  ◯    ◯    ◯    ◯  ぼくは一度、『哲学的ゾンビとゲーム画面の共有』 という記事の中で「哲学的ゾンビ」について考察している。その中では「ゲーム画面の共有」を通じた「哲学的ゾンビ」の回避方法の模索が語られる。  「哲学的ゾンビ」は主に〈他人の自我(他我)はある

      • 政治、あるいは投票行動について

         もちろんぼくだって「戦争を知らない子どもたち」の一人でしかなかったわけで、二十歳を超えた途端「ほら、あんたも投票行きなさいよ」といきなり言われても「政治とか選挙のことなんて考えたことも教わったこともないんだけど」って感じだった点はみんなと一緒だったんですよ。  根本的には今だって似たような感覚。  でも、ぼくが選挙権を与えられた時期っていうのは、自民党と民主党の対立っていうのがわかりやすくメディアで報道されていた頃で、その当時友だちと唯一交わした意見交換っていうのは「細

        • 物理学的世界観との出会いと別れ

           先日、たまたま見つけたブックオフで個人的に懐かしい本と再会した。  定価税込で500円ポッキリ。買い物のついでにワンコインで気軽に買える、いわゆる「コンビニ本」というやつだ。  とある理由でぼくはこの本を手放していたのだが、最近よく思い出すことがあり、あらためてその内容を確かめたいと思っていた。今まで古本屋でこの本を見かけたことがなかったのにもかかわらず、このタイミングで遭遇するとは何事か。アポーツだろうか。  いつのことだったか、ぼくはこの本を読んで初めて「量子論」

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        哲学カフェのアップデート

          未知は救いか?

           自分の人生がもはや不完全なものにしかなり得ないことに確信を持ち始めた頃、ただただ時間をやり過ごすためのコンテンツ消費とは別に、救いの手がかりを求めて何冊かの書物に目を通すことにしたが、その選び方はヤケクソでも行き当たりばったりでもなかった。宗教、哲学、思想といったジャンルを意識する以前の話である。  近所の小さな古本屋で、まず目に止まったのがボロボロになったちくま学芸文庫のアーレント『人間の条件』とボードリヤール『象徴交換と死』、そしてサルトル『存在と無』である。かろうじ

          未知は救いか?

          人間はどのような真理を期待しているのか

           何者かが自らのレゾンデートルを神に問いただしている様子を、人間であるあなたが眺めている場面を想像してみよう。  人間であるあなたは、その何者かの発する問いかけに共感を抱くと同時に、神がどんな応答を見せてくれるかを心待ちにしている。  しかし人間は、対話の当事者になると同時に傍観者にもなっていて、 「しかしわれわれは、神がどう答えたら満足で、どう答えたら不満を抱くというのだろう。そもそも何を期待してこんなことしているのか」 などという、ある意味では呑気だが、ある意味で

          人間はどのような真理を期待しているのか

          哲学において「考えすぎない」をどう扱うか

           哲学を一義的に定めるとすれば、「考える」という動作そのものに回帰する。それはちょうどデカルトが「我思う故に我あり」という洞察に至った地点を思い返せば当然の成り行きであると思われる。  しかし、「考える」ことの実践を積み上げてきた哲学の歴史を振り返れば、そこにあるのは「〇〇は考えなくていい」というかたちの、「考えない」を適用する対象を何に当てはめるかの提案で埋め尽くされている。  幾多の哲学者たちにとって、飽きるほど耳にした最も言われ慣れた言葉は「考えすぎだよ、きみは」だ

          哲学において「考えすぎない」をどう扱うか

          人間の耳、動物の耳──続・音楽を考える

           以前書いた記事「音楽を考える──デカルトの音楽理論」の中で、デカルトと「倍音」について書いた。  それ以来あらためて、なんで「可聴域を超えた倍音」なんてものを気にかけなければならないのかと考える日々を過ごしていた。  そこで問われている「可聴域」という概念は、当然のことながら「人間の可聴域」を指している。人間の知覚能力には限界があり、そこに収まらない領域で起こっている現象については、原理上ひとによって見解が様々に分かれてしまうこともあり、「形而上学」という言葉もある通り

          人間の耳、動物の耳──続・音楽を考える

          哲学的ゾンビとゲーム画面の共有

           今回ぼくが言おうとしていることは、場合によっては抽象的すぎる話になるかもしれない。それはなぜかというと、具体的なシチュエーションから体験した感覚と、頭の中でぐるぐる考えるほかない形而上的な思弁との接着点をできるだけクリアに言語化しようと思うからだ。そんなの当たり前じゃないかという話ではあるが、今回は特に言語化がむずかしい。  感じたことを言葉にする。例えば、花を見て「きれいだな」と感じる。そういうときは「きれいだな、と感じた」と書けばいい。物足りなければ、そこに至る状況的

          哲学的ゾンビとゲーム画面の共有

          「不協和音の解放」という概念について──シェーンベルクの音楽理論

           相手の好きなジャンルが何であれ、今どき「ロックって何ですか?」という質問をするひともいないだろう。趣味といえば音楽鑑賞ぐらいしか思いつかないぼくにしたって、日々いかにその質問だけはされないように注意して振る舞うかに頭をいっぱいにして生活している。だが、疑問の持ち方としては正当性を欠いているとは言えない。  また、言葉にして質問を投げかけずとも、ある音響への対応や態度から、自ずと「ロックであること」の輪郭が浮かび上がってくることもある。すなわち、「不協和音」というものに対し

          「不協和音の解放」という概念について──シェーンベルクの音楽理論

          物と音──ラモーの音楽理論

           デカルトは音の響きを数学的に解析していくことで「倍音」の存在を捕捉し、重要視した。しかし当時はまだ18世紀になろうかという時代。マイクもなければスピーカーもなく、当然コンピューターによる音響測定器のようなものもない中、どうやって「倍音」なんて発想に至ったのか。  ピタゴラスは「鍛冶屋がハンマーで叩く鉄」の音からハーモニーを発見したという伝説を残している。それが事実かどうかさておきデカルトの時代の音楽研究者たちは、一本の弦でできた楽器(モノコルド)を使って色々な高さの音を鳴

          物と音──ラモーの音楽理論

          音楽を考える──デカルトの音楽理論

           音楽が理論化されるに至った経緯の発端は、古代ギリシャのサモス島で暮らしていたピタゴラスにとって、「2つの音を“同時に”鳴らした時にきれいに聴こえるものがあった」という知覚上の経験にあった。そこにシンプルな自然数による比率関係を実験的に見出して以降、音は聴覚的に表現された数学と考えられ、後に「和声論」として研究されていくわけであるが、その成果を〈美〉と直結させるかどうかは恣意的である。  そのピタゴラスの恣意的な理論はボエティウスらによって18世紀、すなわちわれわれが「近代

          音楽を考える──デカルトの音楽理論

          意味の“意味”とコンテンツの公共性──もはや懐かしき『裸のランチ』

           「何かしら文章を書きたい」と思う時に、とりあえずペンを走らせることはできる。それどころか、でたらめに書き進んでいくことすら可能だ。そこまでは落書きのような「絵を描く」行為と違うところはないのだが、絵ではなく文章の場合、書き手はそこで「目的」を要求される。  何のための文章なのか。文章を〈書く前〉と〈書いた後〉で、世界にどういった変化を与えようとしているのか。ペンを前に後ろに動かして、文章の生成を駆動するあらゆる要素は、すべてそこからやってくる。  今からぼくが書こうとす

          意味の“意味”とコンテンツの公共性──もはや懐かしき『裸のランチ』

          お守りとしての『沈黙の世界』

           思想や文学などを好んで読み、なおかつ古本屋に通う習慣があるひとであれば、みすず書房のあの「いかにも」な装丁と、ふと目にしただけで湧いてくるなんとも言い難い「安心感」は、探しものがなくても、あるいは、衝動買いを行う余裕が全くないときであっても、大食漢を誘い入れるとんこつスープの匂いがごとく、古書店へと立ちいらせてしまう理由としてはおおいに常であることだろう。  あれら装丁がみすず書房という出版社が手掛けた刊行物であることを初めて認識したのは、スイスの医者であり神秘思想家であ

          お守りとしての『沈黙の世界』

          かつてバンドマンだったすべての人たちへ

           以前書いた記事(『音楽における愛と歴史』)の中でぼくは、知的探究と愛情のあいだに量的な正比例関係を求める音楽観を〈脱構築〉し、環境論的な反論の提示による状況整理を試みた。その狙いは、「知識と愛がある音楽オタク」vs「知識も愛もないライトユーザー」という対立的な図式によってこれまで助長され続けてきた無益な敵対心の解除にあった。  しかしそのせいで、音楽オタク的な関わり方それ自体が否定されていると感じてしまうひとがいる可能性に満ちた論調に、あの記事はなってしまっているのではな

          かつてバンドマンだったすべての人たちへ

          すべての道は帰り道

           私は世界の中にいる。  あらゆる活動や行為に欠かせない前提となっているこの条文は、人との会話の中で口にする必然性こそきわめて少ないが、内省においては何度となく繰り返し確認せざるをえないような不安定さを抱えている。  「私が世界の中にいる」という時の「世界」が“私”を含んでいるのか、あるいは含んでいないのか。こういう細かい揚げ足取りのような追究がどこかで大きな意味を持ってしまうのが、哲学と呼ばれる作法が身に沁みてしまった人にとって宿命のようなものである。  「この世界」

          すべての道は帰り道