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音楽を考える──デカルトの音楽理論

 音楽が理論化されるに至った経緯の発端は、古代ギリシャのサモス島で暮らしていたピタゴラスにとって、「2つの音を“同時に”鳴らした時にきれいに聴こえるものがあった」という知覚上の経験にあった。そこにシンプルな自然数による比率関係を実験的に見出して以降、音は聴覚的に表現された数学と考えられ、後に「和声論」として研究されていくわけであるが、その成果を〈美〉と直結させるかどうかは恣意的である。


 そのピタゴラスの恣意的な理論はボエティウスらによって18世紀、すなわちわれわれが「近代」と呼ぶ時代まで受け継がれることになった。そこから現代に至るなかで、ヘーゲル的な歴史の発展段階さながらに変化していくことになった「和声論」は、なぜそのような変化を被ることになったのか。ここでも発端はデカルトに見つけることができる。


 今ではもっぱら哲学者として語られるデカルトが優れた数学者でもあったことは、まあ比較的有名な話だが、彼が初めて書いた本が「音楽の理論書」だったことを知るひとはそんなにいないのではないだろうか。彼は数学と音楽の接着点であるピタゴラス派の音楽観を継承し、自分自身がより納得できる音楽理論を一冊の本にまとめた。その成果を、同じく音楽を研究していた仲間たちに読んでもらうというプロセスが、マルチ・ライターとしての彼のキャリアにスタートをきらせるきっかけとなった。


 処女作に作者の本質が詰まっているという見方を採用するならば、デカルトの肩書きを「音楽研究者」とみなしても問題ない。同時期にはザルリーノという研究家も音楽理論書を書き大きな影響力を持っていたが、二人の理論的な差異は「四度協和はピタゴラスが言ってたほどきれいなハーモニーではないのではなかろうか」などといったきわめてマニアックで細かい違いが多いので、興味があれば調べてもらえればいいと思う。いわゆる「sus4」が昔から特殊なポジションを担っていたことを考えるとなかなか面白い。


 音楽理論を、世界観を構成させる思想として読み、時代変遷との連関を掘り下げていく場合の主な観点は、各理論に内在されている超越性を暴くことにある。ピタゴラスもデカルトも、自然数列のような単純な規則が音に対する“美”の感覚に超越性を与えているわけだが、実はデカルトの音楽理論で重要視されている概念は「倍音」であり、その中でも下方の(つまり低い音の)「倍音」が「耳には聴こえないが、計算上は鳴っている音」として詳しく検討されている。


 それまではあくまで「耳に聴こえるもの」を音として扱っていた音楽理論に、「耳に聴こえないもの」としての音を捉える感性を導入したのが近代哲学の(そして現代に至るまでの知的営為の)出発点となっているデカルトだったことはきわめてクリティカルである。音楽とはなにか。その問いは、決して他の思想的課題と完全に切り離された自由な問いではない。音楽そのものが本来は自由な性質を持つものだとしても、現段階において、その自由さを実現するために解きほぐさなければならない固定観念は多数ある。


 数学者でもあった彼はピタゴラス派と同様に「数学的存在」に優位性を与える。数学によってわかりやすく整理されていくはずだったハーモニーは、「倍音」の発見によって現代のオーディオ・マニアさながらのオカルティックな要素をその音楽理論の内側に抱え込むことになったのだ。


 デカルトはなぜ「可聴域を超えた倍音」、つまり耳で聴こえない音の存在を無視しなかったのか。その問いは現段階ではぼくの手に余るが、現在でも音楽に関心があるひとであれば何かを得られる問題ではないだろうか。

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