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「不協和音の解放」という概念について──シェーンベルクの音楽理論

 相手の好きなジャンルが何であれ、今どき「ロックって何ですか?」という質問をするひともいないだろう。趣味といえば音楽鑑賞ぐらいしか思いつかないぼくにしたって、日々いかにその質問だけはされないように注意して振る舞うかに頭をいっぱいにして生活している。だが、疑問の持ち方としては正当性を欠いているとは言えない。


 また、言葉にして質問を投げかけずとも、ある音響への対応や態度から、自ずと「ロックであること」の輪郭が浮かび上がってくることもある。すなわち、「不協和音」というものに対して、どういう風に思っているか、という観点である。楽器の演奏をしていると不可避的に遭遇してしまうのが「不協和音」という状態だ。


 現代のあらゆる音楽は、いかに単体としてはノイジーであっても「楽音」として扱い、「雑音」とは区別される枠組みを提供している。どんなポップスでも「こうゆう曲なの!」と主張すればミスでも失敗でもない。これ自体は良い傾向である。


 しかし、それを理論的に、言語化して表明することは簡単ではなかった。音楽は決して、なんとなく、勝手に、自由になってきたのではない。たとえば先の「不協和音」にしろ、その「不協和音の解放」にしろ、概念として何度も歴史のなかで言語化されていたからこそ一般的な審美眼として共有可能になったのである。現代の演奏者は、先人たちが苦労して積み上げてきたものの理論的な部分は放置し、おいしい部分(=「不協和音の解放」)だけは個人的な心情であるかのように取り入れる。プロセスは見ずに答えだけを拾ってカンニングしているようなものである。


 したがって、新しい響き、新しい音楽を生み出そうとするのであれば、一度その原典を振り返っておくことで、審美眼に関する余計な自問自答を繰り返すことを防ぐことも可能であろう。


 というわけでシェーンベルクである。


 「不協和音の解放」という概念は、1922年に彼が書いた『和声論』の中で初めて言語化された。作曲家であり演奏家でもあった彼は理論書を書く目的について次のように述べる。


《音に関する理論や和声に関する理論を授けることを意図しているわけではない。また、そのような能力も知識も私は持ち合わせていない。すぐに実践できるような、音楽における和声の芸術的手段を叙述しようとしているだけなのだ》『和声論』第3版、1922


 あくまで自分でよりよい作曲を実践するために言語化しただけだということだ。また、彼は自分の理論が間違っている可能性についても、同書の中で述べている。


《倍音列理論が誤っているにしても、和声の問題を意義深く解釈し、見通しよく叙述できたならば、その目的は達成されるだろう。たとえ、のちに倍音列理論と〔それに基づく和声の〕解釈がともに誤りであることが判明したとしても(絶対にそうなるというわけではないが)。これまでのところ、私の知る限り、明白に反駁されたことはまだないので、私は安心して解釈と叙述を試みることができる》『和声論』第3版、1922



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