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咳払い一つ

喉に何かひかかったような感じになって、水を飲んでもすっきりしない。
あと数分で高座にあがって落語をしなければならないのだが、舞台袖と客席との間は、殆ど続いているゆえ、小さな咳払い一つ、音が漏れてしまう。
上演中の高座では、先輩の芸人がネタを披露している。
この状況で咳ばらいをするには、それをかき消すような音がしなければならない。
今、期待できるのは、お客さんの笑い声である。
俺は、喉の苦しみをおさえながら、先輩のネタがウケる瞬間を見計らうことにした。
だが、いつまで経ってもネタはウケず、とうとう、俺の出番がやって来た。
出囃子が、大きくなっている。
よし、今しかない。
俺は、出囃子に紛れて咳ばらいをすることにしたが、帰って来た先輩から、「いやぁ~今日のお客さんはノリが悪いねぇ、一番前に座ってるジジイなんか、最初から寝てるからなぁ、全く何しに来てんだか、こりゃあ、大きな声でも出して、起こすしかねぇよなぁ」
などと、長々、話しかけられてしまった為、一切、咳ばらいが出来ずに高座に上がることになってしまった。
座布団に座って、さぁ声を出そうと思ったが、すんなり出ない。
お客さんは、まだ、俺の調子が悪いことに気付いていないが、それは時間の問題である。
一刻も早く、喉の違和感を取り除かなければと、ふと、一番前の席を見ると、じいさんが気持ちよさそうに寝ている。
大声を出して起こせばいいという先輩からのアドバイスを思い出し、俺は、咳払いをごまかすべく思い切り「いらっしゃいませ~」と声をはりあげた。
じいさんは驚いて、一瞬、目を開けたが、また寝てしまった。
そして、俺の方は、喉の調子が先ほどと変わることもなかった。
どうにかネタをやり終え、俺は楽屋に戻った。
前座さんが持って来てくれた熱いお茶を、一杯飲んだ途端、ようやく喉が、すっきりした。
あのじいさんが、せっかく気持ちよさそうに寝ていたのを起こしてしまって、申し訳なかった。
 
 

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