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映画「サンセット大通り/ビリー・ワイルダー」レビュー ー 怪談の生まれるところと監禁される小説家ー 2話

  さて、思いがけない状況に巻き込まれた主人公であるが、脚本の修正の作業はそれなりに充実したものであり、女主人の要求に応えながらその作業に没頭していく。ここで2番目のモチーフとして浮上してくるのは、幽霊屋敷側の住人たちが招き入れた下界の人間に求めるものは何かということである。
  この映画に限っていえば、女主人の映画スター復活のためにふさわしい脚本であって、それは女主人が永遠の大女優であることの正当性をお墨付きである。奈良時代であれば天皇家の王権の正当性を公式文書化によって知らしめようとした古事記や日本書記が近いであろうか。耳なし芳一であれば、うらみやつらみを琵琶の語りで鎮魂しようとしたかもしれないし、単純に子孫存続のため子種を提供する男であれば誰でもよかった、というストーリーもあろう。つまりは、没落者のかつての栄華が正しかったと記録することが異界に招かれた人間の最大のミッションであって、少なくとも大抵の物語では没落者が復興することはない。

  もっとも、上述したように近代の怪奇小説では、異界は家から個人へと変化する。その上で、小説家が監禁されるというストーリーといえば、すぐに思い当たるのがモダンホラー作家スティーブン・キングの「ミザリー」である。こちらも映画になっている。ミザリーのあらすじは、ベストセラー作家の主人公が旅先の交通事故で逢うのだが、助けてくれた妙齢の夫人が彼の小説の熱狂的なファンだった。一人暮らしの家で介抱してくれたのだったが、彼女は彼の最新刊の結末が気に入らないとして書き直しをするように命じるのであった。なかなか言うことを聞かず逃げ出そうとするベストセラー作家の足は斧で切断されてしまう。人間の怖さを見事に描写するミザリーでは、読者あるいは視聴者は小説中のベストセラー作家になったように、その恐怖をじわじわと楽しむことになる。

   特定の個人に対する怪奇現象は、真景累ヶ淵や東海道四谷怪談に代表されるように殺された者が殺人者への報復であり、因果が明確な点では赤穂浪士の復讐行為と大きく異なるところはない。現代のホラーに通底する恐ろしさの本質はそのような因果や説明がつかないところにあろう。ミザリーにおいても、監禁する女の心情はもはや、その家の歴史などの事情は登場しないし伺いしれない。サイコパスな人間が何を考え、何をしでかすのかわからないという底知れない恐ろしさが現代人の読者・視聴者にも日常生活の実感を伴って襲ってくるのだ。ミザリーから数十年たった現在の視点でとらえれば、サイコな女はインターネット社会の匿名の住人であって、対象が小説家だろうがタレントだろうがあるいは王室の元プリンスその他の誰であっても、匿名の社会ではネット住人それぞれが絶対王である。だれも匿名の言葉の暴力を止めることができない時代にはあって、怪奇小説を下支えする妬み・憎しみはネット社会の地中深くまでを汚染しているようだ。それ以上の心理については文芸評論めいたエッセイでその理屈を語ることはあまり意味もないように思える。

   ここで3番目のモチーフに話を進めるにあたっては、映画のストーリーの説明を補充しておく必要がある。実は、主人公は屋敷に完全に監禁されているのではなく、女主人の目をくぐって外の世界と行き来が可能なのだった。異界と現実界を自由に移動、つまり衣食住はちゃっかりと享受しながらも、息抜き程度には表の暮らしも楽しんでいた。召使いも女主人の様子を伺って揉め事とならないようにやんわりと忠告を繰り返しつつも黙認した。主人公の外出先は友人の元彼女である。その女友達も脚本家の卵であって、かつて主人公が持ち込んだ脚本をあれこれと批評したことがあった。それがいつの間にかその脚本には良いところも少なくないと、これを評価した上で書き直して別の映画に売り込もうと考え、原著作者である主人公に共作を提案するのであった。最初は乗り気ではなかった主人公も、頻繁に屋敷をぬけだしては脚本共作の作業を楽しむようになった。

   つまりは、主人公は屋敷の中での脚本添削の仕事をきっかけとして、表の世界でももう1つの脚本の執筆にもやる気をだして、それまでとは少し違う活力を見せるのだった。

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