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映画「サンセット大通り/ビリー・ワイルダー」レビュー ー 怪談の生まれるところと監禁される小説家ー 3話

  ここで監禁を契機とする執筆をモチーフととらえると、それぞれに事情があって収監された者がその孤独な生活の中で、読書に没頭したり物書きにエネルギーを注ぐようになったという事実は色々とあることにも気がつく。古今世界の大泥棒が悪事を働いたあげく、刑務所でその犯罪自白の記録をときに自慢話と脚色を交えて書きあげている。堀江貴文は監獄で大読書家となった。元外務省分析官だった佐藤優は背任で懲役の判決となった。佐藤は執行猶予で収監されることはなかったが、これを契機にノンフィクション作家として頭角を現した。井口俊英は勤め先の銀行の横領で収監され、獄中での回顧録で小説家となった。監獄という環境が囚人となった者を創作者へと変身させる要素はありそうだ。

  高山宏先生に従えば、かつてカトリックの時代には人は教会で神父の導きのもと、神と対座していたという。ところが英国で言えばピューリタンによる英国教会の改革のもと、人は一人聖書を黙読しその日の自省を日記に残す生活に変化したのだという。ドストエフスキーなどの重苦しく観念的なロシアの小説はあの寒い風土で生まれたのだと村上春樹も初期の短編で書いていたことを思い出す。

  主人公は度々時間をつくっては屋敷を抜け出して、友人の彼女ともう1つの脚本の共作にも余念がない。やがて、恋人に近い関係となってくる。二人が夜のハリウッドの野外セットを歩く時、彼女は両親が映画製作の現場で働いていて、ここを遊び場として育ったのだという。その野外セットはまさに舞台の書割のようで、ハリケーンの被害にでもあったらあっという間に壊れてしまって、周りは何もないカリフォルニアの砂漠となるようなもう1つの虚構の世界であることを示している。つまりは映画自体も魂のこもった脚本でないかぎりは、たちまち実体のないインチキで価値のない代物になり兼ねない虚構の産物である。この観点では改めて映画の構成をふりかえると、この映画では、落ち目になった女優が過去の栄光を引きずっていて、屋敷という虚構の世界で、女優復活の可能性の灯火が消えないように、主人公に脚本を書かせる。もっとも、その彼女が復活を望んでいる映画も世界ももう1つの虚構の世界である。その意味ではどっちにしても彼女は虚構の世界でしか暮らしていけないのだ。

  視聴者はそんな彼女の愚かしさを憐れみも感じながらも笑うかもしれない。ところが、その視聴者もしがない日常の日々を過ごしていくためには、映画の恋愛コメディドラマが虚構だとわかりつつ、それが心の中に彩りと香りを与える不可欠なものだと承知している。ビリー・ワイルダーの時代から50年経過した現代では、映画はそのほかのメディアに役割を承継しているが、大きく変わるところはない。むしろ、仕事が終わって家に帰ってビールを飲みながら、パーソナルライブのアプリを開けばすぐに虚構の世界への参加できるという点では、女優の自己認知欲求の心理と同じである。

  閑話休題。映画も後半にさしかかり、女主人は脚本の映画化と彼女の女優起用を懇願するべく、ハリウッドのスタジオに乗り込む。確かに、彼女の話は嘘ではなくて巨匠クラスの監督は旧知の仲である。ただし、歓迎されない客であって、忙しい中を応対するものの、女優としての抜擢などするつもりは全くなく、社交辞令だけは愛想良いものの体良く送り返すのだった。さらには、女主人の主人公への想いは、単なる脚本の担当者からいつの間にかグロテスクな愛に変化している。脚本を共作している女友だちに電話をして主人公の隠している屋敷での女主人との生活を誇張して暴露するしまつである。

  これは怪奇ドラマに違いないと察した上級者の視聴者には、主人公がどのように屋敷から脱出するのか、あるいは殺されてしまうのかの展開が気になりだす。とどのつまりは、結論がいずれかのパターンになってしまう怪奇ドラマにとってその結末に何か気が利いた工夫があることこそ期待するものだ。

 果たして、もらった衣服以外の身の回り品をトランクに詰めて主人公が屋敷を出たときに、女主人の短銃は火を吹き、主人公は背中を撃たれ、庭のプールに死体となって浮かぶ。ここで、私を代表とするフツウの視聴者は、映画の冒頭がこのシーンであって最初から主人公は殺されることが明示されていたことに気がつく。これが監督の怪奇ドラマファンへのサービスであることに少し納得する。ところが、ビリー・ワイルダーのサービスはこれで終わらない。死んだはずの主人公は映画のナレーターとなって映画に参加を続ける。

 殺人の通報の元、屋敷はマスコミが取り囲み、カメラを抱えた記者たちが、屋敷の二階から警察に連れていかれる女主人公を、一階で待ち構えてバブルフラッシュの光を放つのだった。その光景を目の当たりにした女主人公は、これは映画界復帰を喜んで取材に来たマスコミであると、その来訪に満足な笑み満面で、そしてそれまで以上に鬼気迫る眼差しで、階段を優雅に降りていくのであった。このあたりのエンディングはビリー・ワイルダーの手練れといえようか。かつては華やかだった旧社会の文化の名残をハリウッド映画に残り香として、結末の余韻に浸りながら、エンディングロールも終わったことに気づく。

参考文献
種村季弘 楽しき没落
泉鏡花 高野聖
溝口健二 雨月物語
上田秋成 浅茅が宿
上田秋成 蛇性の婬
寺山修司(泉鏡花) 草迷宮
ウォルポール オトラント城奇譚
エドガー・アラン・ポー アッシャー家の崩壊
トーマス・マン ブッデンブローク家の人々
スティーブン・キング ミザリー
井口俊英 告白

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