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【映画評】ウェス・アンダーソン監督『ファンタスティック Mr. FOX』(Fantastic Mr. Fox, 2009)

脱獄、あるいは「人形の家」からの脱出

 これはロアルド・ダールの児童文学(Fantastic Mr Fox, 1970)を原作とする人形劇である。ウェス・アンダーソンが試みた初のストップモーション映画でもあるのだが、本作を観た後にそのフィルモグラフィーを振り返って見ると、アンダーソンはもともと「人形(あるいは動物)のように人間を撮る」タイプの作家だったと気付かされる。実際、彼は作品ごとにあらかじめCGによる絵コンテ、「プレヴィズ(アニマテックス)」を用い――要はプリプロダクションの段階で既に周到に準備された世界で——、俳優(だろうが人形だろうが)の一挙手一投足を、完全にコントロールしようとしている節があるのである。
 但し、実際の作品には毎回、ウィレム・デフォーやアンジェリカ・ヒューストンらに代表されるこれ以上にないくらい灰汁の強い俳優たち――此度の動物たちの声優もそうである——がキャスティングされるので、既に彼らの個性がアンダーソンの言わば「人形の家」から逸脱しているように見える。そしてまた、この作家がかたち作る物語も「監獄」的閉鎖空間からの脱出譚であることが多いように思われる。

擬人化と脱擬人化、あるいは動物化

 ところで、Herbert Schwaab は『ファンタスティック Mr. FOX』について、ここに見られるのは擬人化のプロセス(動物の人間の社会構造への取り込み)に他ならぬが、そのとき同時に脱擬人化も生じていると指摘する。彼らクリーチャーは自らの動物としての過去から完全に逃れられる訳でもないからだ。登場する全ての動物の学名を Mr. FOX が紹介する場面は、だから、差異によって特徴づけられる世界としての動物世界を誇らしげに示すことで、人間の分類システムに彼らを連結するだけでなく、色々なタイプの動物として受肉させてもいる。我々はそこで我々の想像の産物ではない動物と世界を分ち合うと。
 動物の擬人化の対立概念(擬人化の裏で生じていること)は(人間の)擬獣化かと私などは考えていたが、なるほど Schwaab の様にむしろ(動物の)脱擬人化がそこで同時に生じていると捉えることもできる訳だ。確かにそちらの方が、「我々(人間)」が忘れがちな「人間もまた動物である」という命題を俎上に載せ再考するにも適しているかも知れない。なぜならば、本作における人間もまた人形(動く物)であるからだ。無論、人間を——ナチスがそうした様に——動物化するのではなく脱擬人化するのは非常に難しいだろう。要するに、それは、ある主体による他方に対する一方的な客体化ではなく、相互の脱主体化として推し進められなければならないということだ。
 アンダーソン的脱獄、「人形の家」からの脱出は、独自の「動く物」たちの世界へと続いている。

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