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【試訳】ベン・ハーヴィーによる『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(1968)論(B. Hervey, 2008)

 ロメロはECコミックスと原爆の悪夢でろ過したことで『ホフマン物語』をホラー映画として見たのだと話す。彼はそのなかで人形遣い(パペット・マスター)スパランザーニがホフマンをだまして自らの最新の自動人形(オートマトン)たるオランピアと結婚させようとする話を選び出す。スパランザーニはホフマンにパペットを人間として見せる魔術的スペクタクルを提供するのである。恋愛気分に浸らせるために、スパランザーニはいんちき舞踏会を上演する。「お客」は人形であり、しかし我々はホフマンが見ているように、彼らをほとんど人間の姿で見る――ただし彼らは死んだように蒼白く、目の周りが暗い。彼らは『ナイト』の食屍鬼(グール)のようにひとまとまりで、あたかも死後硬直しているかのごとく、ぎこちなくぴくぴくと動く。ホフマンの友人ニクラウスは彼の思い違いの恋に対して助言する。「もし君が彼女に不利に引き合いに出されるものを知っていたなら…彼女が死せるモノだということを」。
 そうしているあいだに、オランピアの眼を作ったコッペリウスはスパランザーニが自分に不渡り小切手で支払いをしたと気づく。彼は怒り狂って引き返し、オランピアを彼女の頭を素手で打ち落とし、手足を切断する。様式化された夜空の下、彼とスパランザーニは彼女の身体をめぐって戦い、部品にまで引き裂く。二人の男はどちらも逆上に、歓喜と見紛うばかりのまったき奔放に屈する。彼らの眼は大きく開かれ、歯もむき出しだ。彼らは四肢がことごとく切断され胴体が脇に投げつけられるまで止めないのだが、すべてが Dr Grimes の逸話におけるようにうごめいている。もう一人のゴアのパイオニア、スコセッシが認めたように、それはいまだに衝撃的な場面だ。ロメロは『クリープショー』におけるそれからの技術的な影響を認めているが、しかし『ナイト』はより深く恩義がある。それは映画の、ばらばらにされた身体(オリンピアの様子はすみずみまで人間のようだ)への最初の視線であり、「最期の晩餐」にとっての唯一本物の先例である(ロメロがおそらくは目にしていないであろうルイス [1] の映画の部分的例外を除けば)。人形遣いのボディ・パーツをめぐる乱痴気騒ぎの闘いは著しく食屍鬼のそれのようだ。決め手はちぐはぐにも落ち着いた秀逸なまでのショットだ。つまりスパランザーニの鈍重な半人間の助手であるコシュニーユが愛おしそうにオランピアの切断された手を両の唇に引き寄せる――口づけする、あるいは噛む?のである。「最後の晩餐」の秀逸なまでのショットは、これもまた穏やかなのだが、あらゆる疑いを解決する。つまり、一人の食屍鬼が上の空で、しかし優しくといってもよい様子でジュディの切断された手を自らの口に引き寄せ、肉片を噛みちぎるのである。
 『ナイト』は「『ホフマン物語』の演出」ばかりを模倣するのではない。つまり両映画は唯物論の幻滅を、人間のアイデンティティのぼろぼろのふちを厳密に探るのである。食屍鬼と操り人形(マリオネット)は、あの人間性を定義づけるはずの本質あるいは魂を欠く、ぞっとするほどに不完全な「モノ」なのである。

出典:Hervey, Ben, Night of the Living Dead (BFI Classics), New York: Palgrave Macmillan, 2008, 88-89. 

ジョージ・A・ロメロ監督『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(Night of the Living Dead, 1968)。
同上『クリープショー』(Creepshow, 1982)。
マイケル・パウエル/エメリック・プレスバーガー監督『ホフマン物語』(The Tales of Hoffmann, 1951)。


[1] 訳者注:ハーシェル・ゴードン・ルイス(Herschell Gordon Lewis, 1926-2016)。

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