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祖母の話②祖母の生い立ち

今日は、祖母の生い立ちなどを書いてみます。

祖母は大分のど田舎の漁師町で育ちました。
家は庄屋だったそうで、裕福な家だった様です。病弱な母親の代わりに姉やが付いていたそうです。兄弟は、多分10人程だったらしくというのも昔は子供は中々成人まで育たなかったらしいです。
祖母も次女でしたが長女は生まれてすぐ亡くなったそうで、初めての女の子の地位で甘やかされて育ったと言っていました。
祖母の祖母が豆腐屋を営んでいて、寒い日の朝は搾りたての豆乳で顔を洗っていたそうで、なんたる罰当たりだったのでしょう❗️

祖母には妹が一人いて、死ぬまで仲が良く、一人っ子の私は凄く羨ましい仲でした。
二人とも「漬け物」を漬けるのが上手で、お互いの家に行くとまずは、お茶と漬け物。
お互い批評し合って世間話になっていくのです。
祖母は、骨粗しょう症で身体中痛みを持っていて、大叔母は癌で、最後に二人を合わせた時、お互いに「身体が痛いのう。」と言って祖母はその後、一月後、大叔母はその二月後亡くなりました。
仲の良い姉妹がいるのは羨ましい事です。

戻りますが、祖母は学校に行きたくて、家出をした事がありました。
博多に住む母親の妹の所に行って、女学校に通ったそうです。
ハイカラさんです。
袴を履いて、颯爽と通ったそうです。
しかし、父親に見つかり三ヶ月程で、「女に学問はいらん。」と連れ戻されたといいます。
帰っても、大人しい子ではなかった様で、今度は職業婦人に憧れ、地元で電話交換手を始めたそうです。
電話交換手とは、今と違ってでんわをかける時、電話交換手を通して相手の電話と繋いで貰わないといけなかったのです。
当時としては憧れの職業だった様です。

チャレンジ精神や、行動力は少しは遺伝しているかも、、、、笑

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