GIFT

 僕が着いたときに彼女は既にそこにいた。
 長い階段を上ってきて荒れた呼吸を刺すような冷たさが白く着色する。
 ベンチから街を見ていた彼女は僕に気づいて、相変わらずの仮面の笑顔で手を振る。
 息を整えた僕はリュックサックを背負い直して背筋を伸ばす。ほんの少しの警戒。対するあちらは全くの無防備。罪悪感を隠すようにマフラーを掴んで口元へ寄せる。吐いた息が熱の塊として感じられる。
「やっぱり時間通りだ」
 時計を一瞥して浮かべる楽しげな笑みに懐かしさを覚える。僕は曖昧に頷いて、彼女の出方を窺う。
「あれ、待たされて拗ねてる」
 距離を取っていたはずなのに彼女の腕が僕の肩に絡まる。手はそのまま頬を無遠慮に突き回す。久し振りだからと僕も大目に見て為されるがままだ。
 僕らはそのまま街を眺める。
「寂しかったかい」
 揶揄うような声色。そんなときの彼女の顔がいつも気まずそうなことを僕は知っている。
 ううん、と小さく首を振る。友達だって両手の数くらいは出来たし、周りの人達はそれとなく気を遣って、余所者の僕にも優しくしてくれた。
 彼女の手がくしゃりと僕の髪を撫でる。胸がちくりと痛む。
「わたしが来なくても大丈夫だったかな」
 そんなことない。咄嗟に口にしようとした言葉はどうして喉につかえて声にならない。結局、僕は口を開閉させて俯くだけになる。
 僕の頭の上に彼女の顎が置かれ、抱かれる力が少し強くなる。だらりと垂れる手の甲に指を伸ばす。手袋もしないで振り回されていたそれは指先まで冷え切っていて、僕は少し躊躇ってその手を握る。
「あれをやったの、ヴェラ」
 僕は街を見据えてそう問う。街を呑み込む巨大な蔓。通りを這い、あらゆる構造物に侵食している深緑色。都市の中枢となっている場所で大輪を咲かせた花の栄養分がなんなのかを考えたくはない。
「綺麗でしょう」
 顎を乗せられた頭に直接響くような彼女の声はとても清らかだった。
「今日はね、愛おしい人に花を贈る日なんだって。ずっと待たせた分のお詫びも用意したかったからさ、少し奮発しちゃった」
 手に入れるのがどうだとか嬉々として話すヴェラを見て、こんな人だったと安堵感を抱く。
「あの下はどうなってるの」
 僕は巨大な花を指差して彼女に訊いた。複雑に張り巡らされた蔓で隠された小都市がどうなるかが少し胸に引っ掛かっている。
 ううんと数秒唸ってみせたヴェラがわざとらしい咳払いをして話しはじめる。
「まず最初に、彼らは無事だよ。なにひとつ変わらないままだ」
 定義にも依るがね、という注釈は彼女らしい底意地の悪さを感じさせる。
 彼女曰く、あの蔓が人々を物質から吸い上げ、花弁の奥に転写された都市へ移し替えたらしい。そして、本人達も気付いていない無限で永遠に暮らしつづける。
「前文明から変わりたがらないんだから、それも本望じゃあないかな」
 無意識に望むものに肯定されつづけて生きる。高慢にもなり過ぎず、みじめであり過ぎない。生物としての適度な幸福。
 今よりずっと安定しているよ。彼女は目を細めて言う。その視線は都市に向けられている。
「じゃあ、行こうか」
 するりと音もなく僕から離れたヴェラは一歩二歩と先へ行く。
「ヴェラ!」
 僕は彼女を呼び止める。ポケットに忍ばせていた包みを取り出して彼女の手に押し付ける。
「ここだと感謝の気持ちを込めて甘い物を渡す日で、だから」
 小さく言い淀んで、僕は目を伏せる。
 不意に頬に添えられた手に、きゅうと瞳孔が締まる。飛び込んでくるのはヴェラの少し綻んだ顔。それを見たのは初めてだったと思う。
「わっ」
 彼女の手が急に動き、僕の髪をくしゃくしゃと掻き回す。
「せっかく綺麗な髪だったのに、なんで切っちゃったのさ」
 こうやって弄ばれるからだと文句を言って、彼女の手の中から飛び退く。
 久方振りの翼を広げ、空気を蹴って逃げるように空へ舞う。彼女もあっさり僕の後ろへ続く。わきわきと指先を動かすヴェラの猛攻をどうにか躱しながら寒空の中を先導する。
 二度と戻らない街を背に僕らはまたどこかへ向かっていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?