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宗教や信仰についての雑記 #85

◯慈悲の自覚

以前の投稿(#70)で、人間は宇宙が自らを認識するための眼であるという考え方があると書きました。もしそうであるなら、宇宙は人間という眼を通して己の姿を見て、どんなふうに感じ、何を思ったかなどと、宇宙をなかば擬人化して想像してみました。(ここから先は私の空想です。)

まず宇宙は己の姿を見て、その広大さや精緻さ、あるいは美しさに驚嘆したことでしょう。
そして生命の稀有さ、生命が誕生することの難しさ、それに必要な条件の厳しさといったことを感じたのだと思います。

厳しい条件をクリアして誕生した生命の仕組みや、永い永い進化の過程を見て、宇宙は何を思ったか?
やはりそこでもまた、その精緻さに驚嘆したでしょう。でもその一方で、生存競争に負けて淘汰されたり、天変地異で絶滅したりした様子を見て、その数え切れぬほどの苦しみに胸を痛めたかもしれません。
そして知的生命である人類が誕生しても、その生の内に在る苦しみは変わらず、やがて人間は己の苦悩の根源に「罪」を見出しました。

そんな生命と人間の様子を観て宇宙が到達した想いは、慈悲の自覚でした。
自らを認識するために誕生させた生命が、その存在の代償としての苦悩という宿命を負うことに、宇宙は慈悲の想いを禁じ得なかったでしょう。

そこでふと思ったのですが、我々の罪の自覚とはこの宇宙の慈悲の自覚ではないでしょうか。
つまりこれらの罪の自覚と慈悲の自覚とは表裏一体のものではないか、ということです。
これには特に論理的な根拠はなく、直感的に心に浮かんだことなのですが、罪の自覚が感謝の想いや深い信仰に結びつくのはそのためのような気がしてきました。
それにより我々は永遠なるものとつながっていて、そこに救いへの通路があるように思えるのです。

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