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宗教や信仰についての雑記 #30

◯「宗教の行方」を読んで その2

今回も前回に引き続き、「宗教の行方」の感想です。

著者は「自我」をめぐる「空性」のような統合作用を「自己」と呼んでいるようですが、言葉を用いた分節化によってその統合作用を見失ってしまった自我を「単なる自我」と呼び、それをエゴイズムの座と観ています。
そして、そのエゴイズムが他者(人間や自然)を支配しようとして、抑圧や差別や環境破壊を生んでいると批判しています。

そして、人間は本来自我であると同時に自己でもある「自我ー自己」であり、そのことに気づきその状態に再び戻ることを「自覚」と呼んで、その重要性を説いています。
その「自我ー自己」の状態とは、クリスチャンであればキリストが、浄土教の信徒であれば阿弥陀仏が、それぞれ自分の中ではたらいていて、自分を自分たらしめている、という表現されるものだと述べています。

何か大いなるものが私の中ではたらいているという感覚をどうしたら実感できるのか、正直なところ私にはよくわかりません。
宗教多元主義の言う「実在」といった漠然としたものよりも、キリストとか阿弥陀仏のような名を持つもののほうが、より明確なイメージを浮かべやすいのかもしれません。
そういう意味では、具体的な名前というものは大切なのでしょう。

ですから「実在」に何かもっとイメージしやすくなるような名前をつけたほうがいいのかなとも思ったのですが、このような感覚は「向う側」からやって来るもので、努力して得られるものでもないようです。
まずは統合の感覚があって、その後にそれを具体的な名前で表現する、ということのようで、名前から先に考えるのは本末転倒のような気がしてきました。

とりあえずは、焦らず、諦めず、待つしかないようです。

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