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命の大切さを知る。父が最後に教えてくれた事。

(人の命に関わることについて記しています。苦手な方はお戻り下さい。)

To cure sometimes

To relieve often

To comfort always

(適度に治療をして、安心できて、常に快適である)

緩和チケ治療を受けていた父が入院先の病院に置いてあった本を何気なく手に取ったら書いてあった言葉。本当にその通りだと思った。
その本を読みながら毎日、日記を書いた。

私の父は2019年の1月に肺がんと診断された。

両親が離婚していて、私は母と暮らしているので父とは暇な時に会うくらい。父は祖母と2人暮らし。頻繁に連絡を取るような柄でもなかったので会いたい時会いに行く。それが私たちの普通だった。

正月に会いに行くと、祖母からお父さん体調悪いからね。と告げられたけど、風邪っぽかったからインフルにでもなったのかな?そのくらいにしか思っていなかった。

けれど、後日父が肺がんを患っていると知った。

父をはじめ、私の両親は隠し事が非常に多い。隠す理由は心配をさせない為。

それと同じく父はがんのことを隠そうとしていたが、流石に祖母が口うるさく言ってくれたお陰で知る事ができた。一緒に暮らしていないと全く気づけない。

両方の肺にがんがあるかもしれないということで、3月と6月に摘出手術を行った。結果、右は肉芽であり、左はがんであった。

手術室に向かう姿や、集中治療室で眠る姿を見て、今までの元気な父の姿は少しだけ消えてしまっているけど、来年には元気に過ごせるから手術してよかった。そう思って疑わなかった。

今までよりは頻繁に体調はどうですか?と確認の連絡をしていたけれど、回復が見えたので、パートナーの暮らすオランダに3ヶ月ほど行くことを決めた。帰ってくる頃にはコロナウイルスは流行り始めていた。

コロナは肺炎のような症状とニュースで言っていたのを聞いて、当時繁華街のカフェで働いていた私は、父と祖母に会いに行く回数をグッと減らした。自分がウイルスを持ち込みたくないと思ったから。連絡をすると元気だよ、と帰ってくるので大丈夫だと思っていた。

8月12日
お盆だったので、兄と一緒に会いに行くと、また祖母からお父さん体調悪いよ。と告げられる。

手術をして1年と少しで、肺がんが再発していた。

肺には膜が張ってあり、その膜が肺を覆っている。膜に転移していた。
そして、両方の肺を手術しているので、肺はこれ以上手術できない状態になっていた。

抗がん剤を使用して治療をするつもりであることを聞かされ、咳がひどくて横に慣れない以外は、普通にできると言うので、父の好きなドライブにみんなで出かけた。いつも計画なしで、唐突に遠出をするのが好きな父で、この日も遠くまで出掛けて目的地でなんとなく父の写真を撮った。

8月14日
再発したと知ってから毎日体調はどうかと連絡を取るように決めた2日後には嫌な知らせをまた受ける事になる。
抗がん剤は種類で軽いもの重いものあるらしい。そのどちらも父は使用が出来ないと大学病院から言われてしまった。

治療の施しようは無く、唯一できる事は近くの病院へ入院するのみ。




知らせを受けてから、母と泣き散らした。
両親は離婚していても、私と兄の親である事には変わらず共に私たちを育て上げて、彼らは戦友みたいなものだった。

絶望だった。意味が分からなかった。最初の手術後は必ず定期検診に行き、いつも長い時間待たされ、お金を払い、健康にも気を使うようになり歩きに行ったり、調子が良ければ走ったり。念願のスポーツカーを大切に乗っていた父が、祖母の足が悪いことをきっかけに今年の3月に車を変えた。

まだまだ生きる気満々だった。

8月17日
家族で、家の登記所だったり全ての契約書類について話し合う。スーパーでお寿司を買って食べた。

兄と最後の晩餐みたいじゃんって話した。

8月19日
緩和病棟への入院を視野に入れていたので話を聞きに病院に行った。
毎日体調が悪くなっていく父が、この日ついに歩くことも辛くなっていた。痛みも強くなっていた。

説明を受けるまで知らなかったけれど、基本的には緩和ケアというものは治療をしない。治すための治療を行わずに、患者の苦痛や不安を減らすための場所であるということ。がん患者であれば、抗がん剤治療している人は入棟することが不可であるような感じ。

説明を聞きながら、延命を望むか等も話し合った。私は涙を堪えるのが精一杯だった。

8月20日
入院。

8月21日
父の意識が無い、と病院から呼ばれる。

職場から急いで電車に乗るが、全然病院まで着かなくて、震えが止まらなかった。知ってる場所なはずなのに道がわからなくなってしまった。タクシーも急に降った雨のせいで全て出払ってしまっていたので、兄が病院から迎えに来てくれた。ずっと父のそばにいたかったはずなのに来てくれた兄にはとても感謝している。

コロナの影響で面会は1人15分づつ。
そう決まっているけれど、今夜が最後かもしれないと言われ滞在許可をもらった。けれど、父は「喉が渇いた」と意識が戻った。

8月24日
意識を失った日以降、歩くことが完璧に困難になってしまった。心拍と呼吸が乱れて苦しくなってしまうため。
息苦しかったり、痛かったり、寝れない日も続いているし、心拍のモニターはずっと鳴りっぱなしで落ち着けれない。




この日、緩和ケア病棟への移動が決まり、午後に移動。
病室には心拍のモニターはない。とっても静かで穏やかな場所に感じた。

医師、看護師さんが患者である父と付き添っている私にもとても気にけてくださった。意識を失った日から、進行が急であるということを理由に毎日の付き添いの許可を病院からいただいた。仕事後に家族がお見舞いに来る時間だけ家に帰り、シャワーを浴び、それ以外はずっと父に付き添った。何かあれば、皆んなに報告した。

9月1日
今までは微かにあった食欲もなくなり、ご飯をやめてもらう事にした。2、3日何も食べていない。少しだけ飲み物を飲むだけ。

9月を一緒に迎えられると思っていなかったので、嬉しくも、悲しかった。毎日衰弱していく父の姿を見なければならないから。

父に、緩和病棟に来てよかった?と聞いてみると、
「よかったよ。ここは、苦しいと痛み止めを投与してもらえて静かだから。」と言っていた。

常に暑いと言って、部屋のエアコンは24度でさらにアイスノンをもらっていた。

9月4日
体力の低下と、苦しくなる感覚がとても短くなっている。モルヒネからナルベインという薬を投与してもらったり、睡眠剤を投与してもらっても寝られなかったり、心臓が苦しいと父が訴えても何もできない自分がすごく嫌だった。

毎日夜はとても長い。
父が寝れないのと、いつ苦しくなるのか、ヒヤヒヤしているので私も隣でずっと座ってぼーっとしていた。


朝、夜勤の看護師さんが帰る間際に呼ばれた。
脈が早くてとても弱いから、医師に判断してもらい鎮静の薬を増やしていくかもしれないから、とのこと。
鎮静剤を増やしていくと、眠ったような状態になってしまうと聞いていた。看護師さんも、ご家族に連絡して、会えるなら早めに来てもらってね。と言われた。

すぐに家族に電話をして、仕事に行く前に来てもらった。
ありがとうの合唱団みたいにずっと母と兄はありがとうコールをしていた。わかるよその気持ち。名残惜しそうに仕事に行った。

13時ごろに、病棟のお茶会が開かれて、父はかき氷を頼んだ。飲み込めないので口に氷を含んで、噛んで、出す。「美味しかった、美味しかった」と何度も言い、凄く嬉しそうに食べていた。朝からは考えられないくらい元気に見えた。
看護師さんが、写真を撮って回っていたので父と私もツーショットを撮ってもらった。

週末だったので、夜に兄と交代をした。
最後に、父に伝えたいことを全て伝えて、ハグをしてくれた。力強くギュッと。泣きたくなかったけれど抑えられず泣きながら部屋を出た。





看護師さん達は事情を知っているので慰めてもらいながら家に帰った。

9月5日
父の意識はない。でも、薬を投与してもらった数時間後には起き上がり、酸素マスクを外そうとし、ベットからも降りようと暴れてしまう。
目が開いていても、瞳は私を捉えてはくれない。

兄と、まるでゾンビのようって冗談で言い合った。

9月6日
夜にはもう起き上がる体力も無くなって、頭は落ち、顎が上を向き口が開いていて頑張って呼吸しているのが分かる。目は半分開いていた。




正直、これでは生きているの死んでいるのかわからなかった。


9月7日
午前1時頃からずっと、とても短く、弱く呼吸をする父を長椅子に横になりながら見ていた。
いつも暑くない?と聞いてきた父。それは自分が暑いけれど、私が寒いといけないからそう聞いてくれた。そんなことをずっと思い出しながらぼーっとしていた。




苦しくて、痛くて辛いはずなのに、本当に文句ひとつ言わなかった。

午前3時頃、見つめていた父が大きく一つ、ゆっくり息を吸ったなと思ったらそのまま止まってしまった。

一瞬、時が止まったような気がした。
すぐに看護師さんを呼んで、「お迎えの時だよ」と言われた。

家族に連絡をして、一緒に医師の死亡診断を待った。数時間、心臓の動きは止まっていたが父の体はまだ暖かかくずっと寄り添ってしばらく時間を過ごした。

入院する前からいつかはこの瞬間が来ることは知っていたのにどうしても受け入れることができなかった。

目の前で息が止まるその瞬間をこの目で見届けているのに、まだ何処かで父の好きな車に乗ってドライブに行ってるんじゃないかと思ってしまう。

がん宣告から1年と9ヶ月。入院してから18日間。あっけなく父はこの世を去ってしまった。
父はまだ53歳だった。

父はとても日本人らしい礼儀を大切にする人だった。闘病生活中、一度も私たち家族に文句を言わなかった。





「ごめんな」「わるいな」「ありがとね」「ちゃんと食べてるか、ちゃんと寝てるか?」





そんな言葉ばっかりだった。

最後まで私の大好きな父のまんまだった。
ただ、早すぎた。

失ってから気づく、どれほど家族が大切であったのか、大好きだったのか。

今年は不幸が続く年だった。
私にとっても。多くの人にとっても。





夏にオランダから彼が私の家族に会いにくる予定だった。それもキャンセルになってしまった。
彼は、もう二度と私の父に会う事は叶わなくなってしまった。


・・

最悪な年だったけれど、父が一度意識を失ってから最後の瞬間まで、私は付き添いの宿泊を病院から許可を頂き(病状が急速な進行であった為)、医師/看護師の方に支えられて父の側にいる事ができた。
医療関係の方々が大変困難な状況の中、寛大な対応をして頂き本当に感謝の気持ちで一杯です。

まるで、今まで会えていなかった時間を埋めるようにたっぷり時間を過ごせた。

父と母の娘として25年間過ごせた。

自慢の私の”父さん”だった。

そして家族がいる。私を理解してくれている。

オランダ来て、出迎えてくれる彼や彼の家族がいる。




私には支えてくれる大切な人が沢山いる。


父の死から学んだ、命の大切さを一生忘れずに生きていくと決めた。

父に「お前凄いな」って言ってもらえるような、そんな人生をこれから歩んでいこう。


父さん、ありがとう。大好きだよ。

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