見出し画像

「死にたい」を伝える手段

生まれながらにして、希死念慮とは無縁の人生を送ってきた。

両親は僕という存在自体を肯定し、褒め称えてくれ、自己肯定感たっぷり、一部の人からは鼻につくような、でも自分自身は人生を楽しく送れるような、そんな育て方をしてくれた。感謝。

出会ってきた友達は自分を攻撃する事もなく、(攻撃されたら避けてきたかもしれんけど)認めてくれ、叱責もしてくれる人達ばかり。今の人生は友達のおかげでもあるね。

このように、死にたいと思ったことは一度もなく、そうあるべきではないと思い、死にたい意志を示す人には「NO」と伝えてきた。

せっかく生まれたんだから、死にたいなんて言ったらダメだよ!

と、できれば人生が楽しくなるように、ある種、偽善的な行いや言動を繰り返してきたと思う。

でもそれは間違いだ、と日に日に気づいてきた。

各々違った死生観を持っていて、それを言葉1つで変えることはできない事に気が付いた。それが逆に死にたいを増長させている可能性も見なくてはいけないと思った。

SNSで死にたいと投稿してみたり、大量のブロンの空き瓶をアップしてみたり、リストカットしてみたり。

正直見るのは辛いんですけど、もうしょうがないと思ってる。

昨今の国の情勢や景気や、システム、人間関係はカオスそのもの。
まともに生きようにも困難な状況で死にたいってなってもしょうがないと思う。

で、そんなカオスな状況で何故死にたいと思わないのか、と考えた時、
「好きなことして生きてるからだ」と気が付いた。

「将来の安泰を求めて就職する流れ」を10年前くらいまではなんとなく感じていたけれど、もうどこに就職したって「安泰」なんか待ってない、それにみんなが気が付いてる。

だからこそより俺は芸術に惹かれるし、音楽やり続けてえ〜ってなるし、毎日やってるし。それがなかったら多分死にたいと思う。

幸い、表現の自由が認められている国なので色んな感情が芸術としてパッケージングされている。好きも嫌いも、生きたいも死にたいも。

希死念慮や憎悪、悲しみや苦しみは芸術にとって最強のパワーだと思っている。
だからその「死にたい」って表現を「ただSNSに投稿する」から「絵に描いてみる」「詩を書いてみる」「音楽を作ってみる」「写真に収めてみる」っていう手段を通して、発信できるようになったらいいね。そういう社会になるよう祈ってるんだ、毎日のように。

もう死にたかろうが生きたかろうが、なんだっていいから、文字通り全員でかっこよく自分を表現できる社会になってほしいな。

その表現の連鎖がきっと「生きたい」の理由になる気がしてるからね。

というか、そういう社会にするための活動を今まさにしてるんだけどね、僕たちは。

俺の好きな歌に「死にたくなったら歌えよ」って歌詞がある。そういうことだ。

明日もなんかしらの表現をしていくから、連鎖してね◎


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?