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本が好きだということは、人間が好きだということだと思う

私はとにかく本を読む。

好きとか趣味とかではなく、もう、依存とか中毒なんだと思う。
でも不思議なことに、たくさん本を読むことは褒められこそすれ、批判されることはない。好きなものが本でラッキーだったと心底思う。

私が本にとりつかれたのは、中学1年生のときだった。理由は単純で、クラスメイトの誰のことも好きではなかったからだ。この時期は、本当に一人も友達と呼べる人がいなかった。

授業時間よりも、休み時間の方が苦痛だった。その苦痛の時間をとにかくやり過ごす為に、私ははじめてまともに、文字だけの本を開いた。

祖母が数年前に買ってくれ、ずっと読まずにいた「赤毛のアン」。

読まずにいた理由ももちろん明解だ。
それまでは友達と一緒にいるのが楽しくて、一人で本を読んでいる場合ではなかったから。

そのことを、私はしっかり意識していた。意識していたから、本を開くたびに、自分は孤独なんだと思った。私の読書は、実はそういう悲しい行為として始まった。

「赤毛のアン」を面白いとは思わなかった。
それでもひたすらページをめくり続けたのは、目の前の景色を見ずにすむからだった。とにかくやり過ごすことが重要だった。そして、読書をしている姿は、他人の目からも格好がつく。その点も好都合だった。

そんな邪な理由から始まった私と本の関係だったけれど、続けるうちに、稀に「面白い」と感じるようになっていった。自分で本を選べるようになるまで、私はそのまま「赤毛のアン」を読み続けた。「赤毛のアン」はシリーズがいくつも続くかなりの長編。最後まで読みきりはしなかったけれど、随分長いことお世話になった。

2年生にあがると、私は気の合う友達に恵まれた。毎日けらけら笑い、1年生の頃とはうってかわって休み時間が待ち遠しくなった。でもその頃には、読書は読書で、私の中にしっかり習慣として根付いていた。


それからもずっと、本は私を支えてくれている。異国にいる時も、仕事を楽しめていない時も、それでもいつだって本があったから、どうにかやってこれた。気付けば、本は私の心の安定剤になっていた。

目の前の状況を、周囲にいる人たちを、ただ愛することが難しい時もあるから。

私に本が不可欠な一番の理由はそれなんだと思う。

そう思うと、やはりどこか孤独の匂いは消えないし、目の前のことを愛せていないことに、なんだか少し不思議な罪悪感を抱くこともあった。

でも、こうも思うのだ。

本が好きだということは、少なくともその本の著者や、その本を作ると決めて実行した人たちのことも、好きだということだ。

だから、目の前にいる人たちを愛せていなくても、誰も愛せていない訳ではない。遠くにいる、誰かのことはちゃんと愛せているのではないかって。

そう思ったら、なんだか少し気持ちが軽やかになった。

だから私は、今はその考えを自分の中で堂々と採用している。
私は本を通して、ただ目の前のことから逃げているのではなく、遠くにある別のものを愛そうという努力をしているのだ。それは、希望を自らの意思で見つけ出そうとする前向きな行為だ。

私はこれからもきっと本と共に生きて、死んでいく。

誰かがいるときも、一人の時間がある限り本を読まないことはないだろうし、誰かがいないときも、同じように本を読む。

たくさんの本に触れた人生は、たくさんの愛に触れた人生と同じだ。








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