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へらへら笑ってろ(双極性障害の私)。<25>信仰について考えた。

2度めのコロナ罹患から復活しました(風邪だと思っていた発熱はコロナでした)。風邪であれ、コロナであれ、その渦中と回復後に感じる健康の有難みは計り知れません。ほんと、健康第一ですね。

そして、随分身体が楽になって迎えた嬉しい日曜日の昨日、アメリカ人の同僚Pにご招待いただいて、フィリピン人の方々向けのミサとその後のgatheringに参加してきました。Pは敬虔なカソリックなのです。

Pからはパーティ(gathering)からの出席でもいいよ、と言われていたのですが、最も大切な時間を体験せずしてご馳走にだけ預かるというのは不謹慎な気がして、ミサから参加させていただきました。参加して良かった、本当にそう思います。

フィリピン人の神父様は英語とタガログ語でゴスペルを行われましたが、9割フィリピン人の参加者による祈りは全てタガログ語。日本語、英語、タガログ語で書かれた冊子を、ときおりPが「いま、ここだよ」と指さしてくれなかったら、ちんぷんかんぷんだったと思います。幸い、大学時代(英文科)には聖書文学の時間もあり、少しは背景を知っていたので、まったく理解不能というわけでもありませんでしたが。

神父様のお話は、sacrificeについてでした。私のランダムハウス英和大辞典によると、いけにえ、ささげ物、(神に)いけにえを差し出すこと、供犠、犠牲、犠牲的行為などの意味があるようです。

Pは、Lent(受難節)についても教えてくれました。2月14日に始まって復活節までの40日間、自分に対して節制を行うのだそうです。Pが節制しているのは、YouTubeを観る時間。代わりにPodcastを聴いたり、祈りの時間を増やしたりしているのだそうです。

私の投稿を読んでくださる方は、双極性障害についてお知りになりたいのだと思うので、それとこのミサの体験の関連性に疑問を感じられるかもしれませんが、私にとっては、このふたつは大いに関連があります。

なぜなら。
信仰のもつ治癒力を、体感できたからです。

P、そして教会で今回出会ったフィリピンの方々は、みな、とてもお優しくて明るくて、ポジティブです。それは、信じていて、守ってくださっている神様がいるからなんだな、と改めて思ったわけです。

私には、別の信仰をもっている旧友もいます。彼女と共通の友がこの夏に亡くなったときも、彼女は気丈でした。祈りを捧げていました。そして、その祈りはきっと亡くなった友に届いたと思いますし、祈った彼女にとっても大きな支えになったと思います。
あのときも、「信じるものがある人は強いな」と思った覚えがあります。

私は、特定の神様を信じているわけではありません。家には仏壇があって、お葬式は仏教式、新年には神社仏閣にお参りし、中学高校はとある宗教が母体の学校に通い、大学はプロテスタント系でした。本当に節操がない。
でも、そうした生まれ育ちからか、宗教に対する偏見はないつもりです。むしろ、心の支えを持っている信仰者の方たちを羨ましくすら思います。

双極性障害の、特に鬱期には、生きることがとてもつらいものです。自分を信じるなんてことは到底できないし、何をしていてもしんどくて、希望なんて、どこかに行ってしまいます。

もし、そんなときも祈ることができていたら、まったく違う闘病生活を送ることができるんだろうな、治癒を信じることができるんだろうな、と思います。

かといって、今現在の私は、信仰を始めようとは思ってはいませんが、自分を肯定するために言うなら、私は大きな意味で、神様の存在は信じています。いまが健康で、安定しているからかもしれませんが、生きていることそれ自体が奇跡で、自分の力だけで生きているわけではなく、「大きな力に生かされている」と思っているからです。

その、生かされていることへの感謝の気持ちさえ忘れなければ、もし、今後また鬱期が来たとしても、乗り切れるかも。そんな気すらしています。

信仰者の方々から学ぶことは、まだまだたくさんあると思うので、宗教については、少しずつ本を読んだりして学んでいきたいです。Pから、初心者が読みはじめるなら、聖書はヨハネによる福音書か、マルコによる福音書がお勧めと教わったので、まずはそこから始めようかな。謙虚な気持ちで読み進めてみたいです。日英語の聖書は持っているんです。楽しみです。

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