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他者のために生きることが、自分のために生きるということ

「お国のために」「愛国心」
などという言葉がありますね。

愛国心を持つことを礼賛するわけではありませんが、
誰かの何かのために生きて、
役割をこなし、仕事をこなしているということを
どれだけの人が今、実感できているのでしょうか。

「家族のため」というのは一つの見方ではある。
ただ、それだけで人生が満たされるのであれば、専業主婦(主夫)の自己肯定感の低さがここまで社会問題となってしまっていることへの説明がつきません。

家族は愛を育んでくれるけれども、
親の立場で見れば、家族が生きるために必要な衣食住やそのための収入を約束してくれるわけではなく、
それは家族の外側にあって、その外側の地域や社会との繋がりを実感できなければ、心の充実のみならず、生活そのものも不確かなものとなってしまうわけです。

東洋思想においても、
他人との関係性、期待値や行為、評価などを通じてはじめて自己という存在を認識できるようになる、という概念があります。

その思想に則るなら、
「自分のために生きる」ということは、
自分の役割や価値、居場所を認識づけてくれる、他者や地域、学校や会社、社会のために生きるということ
にほかならず、
「自分のためだけに生きる」ことは
論理的には不可能、と言えるわけですね。
(他者との関係性を無視するということは、自己の役割や存在認識そのものの放棄であり、その状況下において何が自分のためであるか、その目的を定義できなくしてしまうため。
仮に他者との交わりを絶って完全自給自足生活したとしても、それは自分一人でただ生きているというだけであり、自分のために生きていることと同義ではない。)

ですが、「自分のため」という考えを誤って解釈して、他者に積極的に依存しない生き方を志向するようになり、結果的に「自分」という存在を不確かなものにしてしまっている問題が起きてしまっているのではないでしょうか。

あるいは、「誰のために生きれば僕たちは幸せが約束されるのか」という結果主義的・利己的思想が、本来、誰かのために生きてみることで自己の存在意義が認識されるという、行為から望ましい目標が設定される中で目標を先に設定しようとする無限ループに陥って行動不能になってしまっているのではないか。

現代においてはその感覚がとても希薄化してしまっている、誰かのために生きる、誰かの役に立つ、ということを確かめられることは、働く、生きるモチベーションとして非常に重要な糧だと考えます。


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