秘密基地

自宅近くの公園の真隣にある坂道を下って横断歩道を渡り、お辞儀した桜の木の向こうにそれはある。ちょっと目を凝らさないとあるかどうかわからない隠れ家的カフェだ。桜のほかに様々な植物が繁茂していて、お客を迎えるアイアンアーチには蔦がこれ以上無いくらいまとわりついている。
比較的人通りの多い横断歩道の近くに位置しているにも関わらず、周辺のあらゆる角度からはカフェ全体を視認することがとても難しい。さらに、店の周りをコンクリートの塀が囲んでおり、様々な植物が店の頭上を覆い隠しているのだから尚更その存在を発見しにくい構造になっている。まるで敵襲に備えて頑丈な装備で籠城する将軍のような佇まいだった。

新居に越してきて5ヶ月。このカフェを見つけて2ヶ月だった。今ではもう店内で一杯のコーヒーとともに読書を楽しむのが私の習慣となっていた。外からは想像できないほど店内はとても居心地が良かった。どこか不気味で愛らしいウッドテーブル、感触の良いワインレッドのソファ、程よく光を飛ばすシャンデリア、西洋の甲冑のように規則正しく並ぶコーヒーサイフォン。そして、窓からは陽光をいっぱいに受けた緑の大群がみずみずしく光り輝いていた。
コーヒーを飲むと、店内のあらゆる細部を一斉に享受している気持ちになり、目に映る全てのことが穏やかな午後の時間に溶けていった。
新しい環境で慣れない生活を続けていた私にとってこのカフェはオアシスだった。カフェに出会うまでの3ヶ月間は随分前に見た夢の話のようで、非現実性を帯びていた。店内の雰囲気は私が体感する時間の流れを変化させているらしかった。

新卒採用で入社した前の会社は職場にいる人間の持つ連帯感についていけず2年でやめた。それと時を同じくして、大学3年から付き合っていた恋人とも別れた。何となく、自分に堆積してきたこの世のあらゆる要素が崩れ去ってしまったようでとても悲しくなった。だが、妙な清々しさもあった。それは、引越しの際に物を全て片付けてしまった部屋のような清々しさだった。
私の生活の中でこのカフェは一つの要素に過ぎないが、誰にも邪魔されない秘密基地と言えるだろう。

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