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9年前、母が練炭自殺した話。

※ タイトル通り、愉快な話ではありません。大切な方を突然亡くしたご経験がある方、特に自死遺族の方は本文中でフラッシュバックを起こす可能性がございます。ご自身のご判断の上で、心の余裕があるタイミングでご一読ください。





今までずっと公にしてこなかった、秘密を書いて公開する。
なぜ今公開するのか?いろいろと理由はあります。

・長い時間が経ってようやく言葉にすることができたから
・近い経験や生き辛さを抱えた当事者に出会うことが増えたから
・本音で話して関係性を築いている方々に、アイデンティティに関わる秘密を隠している罪悪感があるから
・現在が人生で最も、精神状態が安定しているから


幸いにも、今の僕は至って幸せです。そりゃ人間なので悩みは尽きませんが、毎日ゴキゲンワクワクと過ごしております。

だからこそ、人がどんな過去や背景を抱えているのか分からないものです。


僕も今までたくさんの人を傷つけて、無数の後悔を重ねて生きてきました。自戒を込めて、もう少しでも優しくなりたい。他者の気持ちや背景を想像して、日々向き合う人が安心できるような自分で在りたい。


まずは僕が公開することで、また出会う誰かの経験を深く分かち合えたらいいな。そんな想いと願いです。(それと隠し続ける日々にはもう疲れた!)

長文かつヘビーな内容のため、心に余裕のあるタイミングでどうぞご覧ください。



僕が高校1年生だった2009年9月21日、母が自殺した。

夜中に軽自動車の中で一人、練炭を焚いて睡眠薬を飲んだ。朝見つかった時にはただただ静かに眠っていた。39歳だった。

 

運転席と助手席の間が真っ黒に焦げて溶けた跡を見て、本当に練炭自殺はこの世に存在するんだなって、びっくりしたのを覚えている。


第一発見者は僕の二つ下の弟。当時14歳。
未だにその時の様子は聞けないし、そもそも母の話はタブーとなっている。

・ 

僕が物心ついた時には、母は重度の「うつ病」で入退院を繰り返すようになっていた。だから健康な母の姿の記憶は一切ない。

 

うつ病がきっかけで実家を離れ、父と母と僕と弟の家族4人、ボロい借家で暮らした時期もあった。4歳から6歳前後のおそらく2年くらいだろうか。
正直、幼少期から小学生までの記憶は断片的にしかないのだが、その家の間取りや雰囲気は今でも鮮明に覚えている。

 

僕の記憶の最初で最後、家族4人の団欒。幸せを覚えながらも、母はその間も何度も自殺未遂を繰り返した。睡眠薬の大量服薬や、刃物での自傷行為。幸せな団欒の記憶はいつも、救急車のサイレンと共に霞んでいく。



僕が小学生になる頃には、母は長期入院となった。家族4人だけでは過ごせなくなり別居、のちに離婚する。僕は母方の実家を中心に小学生の時期を過ごした。


幸いだったのは母方の祖父母も、父方の祖父母も、温かく支えてくれたことだ。想像を絶する苦労や葛藤があったはずだが、幼い僕と弟の前ではそんな素振りさえ見せなかった。経済的な不自由さを覚えることもなく、たくさんの人に愛されて今まで育ってきたことには感謝しかない。


小学生の間は、母には入院していて会えないか、退院しても家で寝たきりか。どちらかの母の記憶がほとんどだ。普通の家庭への憧れを募らせながら、「これだけ辛い思いを母も僕も、みんな我慢しているのだからいつか幸せになれなきゃおかしい。」その願いが僕の唯一の希望だった。


高学年に上がる頃には少しずつ母の病状は良くなっていき、入院することもほとんどなくなった。寝たきりの日も多かったが、活動できる時間も増えていたと思う。





中学校からは父方の実家から通っていたため、母とは過ごす時間はさらに減った。とはいえたまに発作が起こるくらいで容体は安定しており、少しずつ社会復帰に向けて動き出していた。


この頃、母の発作をきっかけに、僕は母と泣きながら約束した。「どんなに苦しくても、二つ下の弟が成人式を迎えるまでは生き続けること。」そこまで辿り着ければ、僕は大学を卒業して社会人となり、母を近くで支えることができる。そんな中学生の浅はかな青写真。


地元の進学校に無事合格した僕を、母はとってもとっても喜んで祝ってくれた。皮肉なことに、それが母と共有した最後のお祝いだった。





忘れもしない9月20日、高校の中間テストの真っ最中。午前のテストを微妙な手応えで終えた僕は、母方の実家に寄ってお昼ごはんを食べていた。


母はその日体調が悪かったのか寝たきりの状態で、苦しそうに僕に話しかけながら、僕は適当に相槌を打っていた。母の体調に波があるのはいつものことだったし、僕は次のテストをどう乗り切るかで頭がいっぱいだった。


「また来るね。」そう母に言い残して帰った僕の背中を、母はどんな想いで見つめていたのだろうか。それが今生の別れになるとは到底思わなかった。

その日の夜中、母はひっそりと練炭自殺で生涯を終えた。





母の葬式前後の記憶はほとんどない。死因が自殺だったため、ほとんど密葬に近い形で行われた。だから高校へも先生にしか事情を伝えなかった。


お葬式を終えてすぐに、僕は高校に通い始めた。家族は「もっと休んでいい」と言ったが、家にいる方が気がおかしくなりそうだった


いつも通り登校した僕に事情を何も知らない同級生は、僕がテストをサボっていたとからかい、僕は同調し冗談を言って笑い合った。


以前と変わらない日常生活。ホッと一息ついて、自席で授業を受けながら、僕の価値観は大きく壊れていった。最愛の母がいなくなっても、こうして日常生活は一見滞りなく続くのだ。

隣の眠そうな同級生と皮一枚隔てて、僕は今にも発狂しそうになりながら国語の授業を受けている。母の命の意味は、価値はなんだったのだろうか。あまりにも現実が残酷に思えた。


なによりも小さな頃から羨望していた母と平穏に暮らす幸せが、僕にはもう二度と手に入らない事実を、ゆっくりとゆっくりと噛みしめる絶望の日々だった。毎日何十回と後追い自殺を考えたが、僕までも自ら命を絶ったらいよいよ家族は崩壊すると思い、ギリギリで踏み止まって生き長らえていた。


そうして生きることや社会への希望を失った僕が、大学でまちづくりに出会って長いモラトリアムへ入り、たくさんの大人や友人に救われるのはまた別のお話・・。





今年のお盆はいつものように墓参りを終えた後、ふと思い立って9年ぶりに母の残した遺書を読んだ。練炭を焚きながら死の淵で書いたのであろう、震える文字で想いが刻まれていた。


「約束守れなくてごめんね。純は強い優しい人間に育ってください。母親失格だね。許してください。」

泣いた。激しく慟哭した。9年越しに対面する生々しい母の痕跡に、嗚咽が止まらず、胸が張り裂けそうになった。


気づけば母の記憶はもうほとんど思い出せない。母の声も、匂いも、仕草も、手料理の味も、この9年間で全部忘れてしまっていた。


いや、記憶の片隅に封じ込めることで生きてきたのだ。少しでも思い出すと悲しみは無限に溢れてくる。突然フラッシュバックして全てが虚しくなり、泣きながら朝を迎える日も数えきれないほど経験してきた。



第一志望の大学に合格した日も、初めて恋人ができた日も、

成人式や、毎年の誕生日、嬉しい時、悲しい時・・・。

なにかの節目の度に僕は、母がこの世にいないことを嘆き、なぜ自ら命を絶ったのだと責め、同時にそこまで追い詰められていた母の気持ちに胸が詰まる

そうして母の孤独に気づけず何もできなかった、自分自身への罪の意識に苛まれる。


もしも母が命を絶つ前日、真剣に母と向き合っていたならば?
もっと母のためにできることがあったのではないか?
もしかして、母を最後に追い詰めたのは僕だったのかな?

そんな答えのない自問自答を、繰り返しながら生きている。


一生、一生逃れることはできない大きな業
背負わされたその意味を考えながら、自身が潰されないように墓まで持っていく。受け取った母の人生と、残された僕の新たな約束だと思う。





もしも今、母に会えるとして、一日時間をもらえたらどうしようとよく考える。


僕の運転でとっても綺麗な景色を見にドライブしたり、

母に似合う綺麗な服やアクセサリーを一緒に選んだり、

可愛いカフェで甘いケーキセットを頬張ったり、

母の好きだったミスチルやGLAYを歌ってあげたり、

お洒落なバーで乾杯しながら僕の大恋愛を報告したり、

最後に思いっきりハグして、照れ臭いけど頬にキスまでしてあげたい。


なにをどうしたってもう二度と、叶えることはできない願い。今ならこんなに母を喜ばせることができると、想像するだけで狂いそうになる。その未来を、約束を消し去ったのは母自身なのだ。


消えることのない虚しさと憎しみを抱きながらも、そんな母の選択を赦すしかない。その選択すら尊重したい。頑張ったね、ありがとうって言いたい。


せめてあの世では苦しみから解放されて、気持ちの良い場所で穏やかな日々を営んでいることを祈るばかりだ。





母が自死に至るまでの苦痛や絶望を、僕なりに精一杯何度でも想像するけれども、いまだに全てを理解することはできない。

当たり前だけど、それぞれの当事者にしか、悲しみや苦しみの大きさは分からない。血が繋がっていようと、どれだけ意気投合しようと、僕とあなたは他人だからだ。


それでももっと優しくなりたい。いろんな生き辛さや、誰しもがひっそりと抱えているモノに向き合って寄り添いたい。


そう思えどまた大切な誰かを傷つけては、どうしようもない自分を責める。そんな日々を繰り返して、今日に至っている。





でも少なくとも今は、死にたいとは全く思わない。生きていきたい

ここ数年間はたくさんの温かく前向きな大人たちや、志高い友人たちに恵まれて、その営みと繋がりに掬い上げられて生かされてきた。


自分の経験が確かなアイデンティティになって、思想や価値観に落とし込まれていくのを日々実感した。


様々な生き辛さを抱えた当事者に出会うこと、カミングアウトされることが増えた。みんな何か抱えて、それでも生きているんだって知った。

ようやく自分の言葉で紡げた今だから、9年前の呆然と立ち尽くした僕に、「大丈夫だよ、幸せになれるよ。」って伝えたい。
むしろ毎日ワクワク・ゴキゲンに過ごせて、幸せ過ぎるくらい。


背負った業の重さの分だけ振り幅のある豊かな人生を謳歌するのだ。

たくさんの喜怒哀楽と幸せを噛み締めて、明日からも生きていく。





ああでもやっぱりもう一回、母に会いたいな。一生そう思い続けるんだろうな。

月並みだけど、「産んでくれてありがとう。幸せだよ。」って言いたいな。


尽きない悲しみは、尽きない深い愛情として。
また違う大切な誰かへ渡せますように、巡り巡って母へ届きますように。
そう生きていこうって決めた。


なによりも最後まで読んでくれた優しいあなたの日々に、

彩りと希望が溢れることを願って。




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