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【書く】文章はいつも上書きし続けねばならない?

文字化する。言語化する。
私はこうした行為が、
自分には大切な、意味のある
ことだと思ってきました。

でも、果たして本当に
そうでしょうか!
そう突きつけられたことがあります。

もしかしたら
読書感想文の記事でさえ?
過ちを含んでるのではないか?

本の感想を文字化する。
作家のイメージを文字化する。
人生観を文字化する。
気づきを文字化する。

それらは文字化されると、
「真実」になります。
少なくとも、
間違ってはいないこととして、
脳にインプットされます。

その感想文が
作家が込めたメッセージから
かなりズレていたとしても。

書くことはアウトプットだと
思われていますが、
実は文字化することで、
心にインプットしているんですね。

だから後で、あれは間違いだったな、
と気づくことがしばしばですが、
書いてるときは、
自分に言い聞かせてしまうから、
気づけないのですね。

誤りはつねに含まれてしまう
可能性のなかにあります、
書くという行為には。

さあ、どうしましょう。

それには、
絶え間なく心の中で上書きしてく。
心でアップデートしてく。
それしかないでしょう。

と、言っていたのは、
糸井重里と芦田愛菜の対談でした。
どちらが言ってたか?
忘れてしまいましたが、
言葉についての対談でした。

糸井重里はともかく、
もう孫みたいな年齢の芦田愛菜が
言葉について、
糸井さんと対等に話し合っていて、
びっくりしました。
たしか、NHKの番組でした。

話が逸れましたね。

文字化はいつも
立派で正しい行為だとは限らないよ、
と突きつけられたのは、
こんな文章に出会ったからでした。

「仏教が釈迦によって始められたときは、不立文字(ふりゅうもんじ)だった。
解脱を目的とする釈迦の思想に、実践こそ必要で、言語表現の多用は無用だった。」
「十六の話」司馬遼太郎より。

仏教の教えのためには、
文字は妨げであった、という。

キリスト教も似ています。
イエスは弟子には、自分の考えを
文字で残しませんでした。
聖書はあくまで弟子たちが
親分の考えを忘れないよう
慌てて文字化したんですね。

さあ、また元に戻りましょう。

読書感想文はもちろん、
自分の人生観的な気づきを
文字化する時には
真実からブレないか、
本質を射抜いているか?
常に上書きしていかないと、
行けないでしょうね。
芦田愛菜ちゃんがいう通り。

言葉にする。
それはいつも風化しやすく、
本質からズレていきやすいから。

言葉とその意味する何かの
デリケートな関係のために。

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