見出し画像

【革命】学生運動の失敗と、村上春樹の台頭…

昨日、5月28日、
日本赤軍幹部・重信房子が
刑期を終えて出所してきた。

たぶん、ほとんどの
60代以下の人には、
この女性の出所がなぜ
そんなに話題になるか、
ピンとこない。私も来ない。

わかるのは、
重信房子は
政治に熱い70年代の中心人物
だったということくらい。

今の60代70代は、
重信を恋人のように語り、
青春時代の象徴として
うっとりと話すでしょうね。

ところで、
日本には学生運動は
2回、ありました。

最初のは、
1960年。
当時の日米安保条約締結に
反対した全国的なデモやストライキ。

もう一つは1969〜1970年の
日米安保条約に反対した
学生中心のデモやストライキ。

先の反対運動では
安保条約は締結されたものの、
当時の総理大臣の渡米を
延期させたり、後に辞職に
追い込むなど、終始、現実的で、
空回りしませんでした。

それにくらべ、
1969年の反対活動は
途中から市民や学生が
どんどん抜けていき、
最後に残ったメンバーで
連合赤軍と名乗り、
政治や安保法案とは関係なく、
集団リンチやあさま山荘事件を
起こすに至りました。

ちなみに、
永田洋子ら連合赤軍の大半が
群馬の山奥を目指していく中、
重信房子は海外に逃亡し、
海外でのテロ活動に進みました。
集団リンチに関わっていない。
一方、永田洋子は
常にグループの幹部として
気に食わない同士を、
仲間に殺させていきます。
女革命家の重信と永田は
ここで、評価を決定的にしました。

ところで、なぜ?
なぜ?2回目の学生運動は
不毛に終わったのでしょうか?

私も私なりに、
正義や革命には
ちょっと憧れたりするので、
日本の1969年の学生運動はなぜ
失敗に終わったのか?
モヤモヤ考えてきました。

最初の安保法案(1960年)で
政府にノーと言った学生や労働者は、
20才前後だとすると、
戦争を身近に知る世代でした。
1945年、敗戦を
5才前後で迎えてる計算になる。
家族にも直接、犠牲者が
いた人が多かったでしょう。

それに、まだ日本社会自体、
あたりを見渡すと、
戦争の傷跡が見えた時代。

戦争はだめだ、絶対だめだ、
もう政府に好き放題はやらせない
と本気で思い、
大合唱で、反戦に取り組んだ
人たちでした。

ところが、
重信房子や永田洋子、
またその「同士」の学生や市民らは
敗戦の1945年、まだ生まれていない。

1969年、1970年に
20歳前後だった若者は
1950年代生まれです。
戦争を知らない人たちなんです。

だから、平気で
「武力革命」などと言えたのではないか、
だから、頭でっかちな
大きな言葉、重い言葉をぶんぶん
振り回していたのではないか?
戦争を、身にしみてはいないから?
という推理はできます。

こうした、政治に熱く
コミット(関与)する若者、
特に連合赤軍のメンバーの、
挫折や頓挫を見てしまうと、
政治活動が馬鹿らしくもなるでしょう。

村上春樹のように
社会からデタッチ(距離をとる)することが
大事になっていったとしても
仕方がありません。

2回目の学生運動の挫折と
現代日本文学の流れは
非常に深いところで繋がっている
かもしれませんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?