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【徒然草】書くことは、怪しい行為だ?!

書くことは怪しいことだ?!

みんな、教科書で必ず出会う
おじさんエッセイのパイオニア
吉田兼好『徒然草』。
700年以上昔に書いたエッセイ集。 

かの有名な冒頭、
『つれづれなるままに日暮らし、 
硯に向かいて、こころにうつりゆく
よしなしごとを…』は、
日本一馴染み深い文章ですよね。

今回、問題にしたいのは
『そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ』と
いう箇所です。

あやしうこそ!?
ものぐるおしい!?

「書く行為」が、じつは
非常にファンキーで、
また、おかしくなりやすい、
そんな物騒な話を書いている。

「日々、心のままに書いてたら
心が狂いだしておかしくなるようだ」
と吉田兼好おじさんは
書いているんですね。

書いていると、どんどん
意識側の自分では
普段は考えてもない言葉が
出てくる、出てくる。

心が狂いそう……のくだりは、
学校では、余り説明はしない。
というか、
たいていの教科書や参考書は、
はぐらかしている。

「心のままに書いていく」
というのは、本当に
自分の心の深淵を見つめながら
書いていくことですね。
論理的に書こうとする
理性の向こうに至る話です。
時には、常軌からはみ出すような
無意識のパワーや、
普段は制御してる
欲望を解き放つ、
危なくて楽しい行為なんだ、
という話でして、
…教科書や学校で
そこまで教える自由でファンキーな
先生はいないかなあ。

自分の心を本当に見つめ、
論理性や知識を介在させず、
自由気ままに書いていく。
じつに楽しそう。

しかし、それは
自我を解き放つ訳ですから、
楽しいでしょうが、
逆にいえば、同時に
自我を崩壊させてしまう
かもしれない行為なんですよね。

心のままに書いて行く危なさ。

私は普段はまだ、
吉田兼好がいうところの、
あやしうこそ、ものぐるほしけれ、
というほどの境地には
至ってはいない。
まだ自我を解放もせず、
論理的に、意識的なレベルで
駄文を書いてるということかあ。

自分ではかなり、
意識や論理をかなぐり捨てて
noteを書いているつもり
なんですが、まだまだ全然ですね。
(汗)。

700年前の、
人生の達人だった、
吉田さんのエッセイ集は、
たぶんまだ誰も、
その深さやユニークさを
超えられていないでしょうか。

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