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【自己】自分とは何?自我の解放とは何?青春の通過儀礼!?

「自我の解放」。

最近、同い年の人から聞いて、
私は懐かしくすらありました。

自我の解放。
もう遥か昔に忘れていた言葉です。

たしか、
18才19才から28才までは、
「人は誰も、本当の私を
わかってはくれない、、、」
よくそんな不安や嘆きに
明け暮れたものです。

「本当の私」が一つしかない
みたいな認識しかできていない、
そんなこともわかっていない(笑)。

それに、
自分、自己というのは、
相手の数だけ、存在する。
◯◯くんから見たら
私は陽キャな変態であったり、
□□さんから見たら、
私は陰キャのくそ真面目である、
「私」「自己」「自我」などは
相手次第で千変万化するもの。

本当の私はこれこれだといい、
嘆いていたのが、
今ではウソみたいで、
信じられません。
今では「ああ、みなさん、どうぞ、
お考えになりたいように
私をどんな奴か、決めて下さい」
そんな感覚になって、
今では、心もすっかり軽くなりました。
どう見て欲しいかは、 
自分の感情にすぎません。
他人がどう私を認識し、認定するかは
私にはどうすることもできない。

すると、こんな疑問が湧いてくる。
10代から20代半ばまで、
自我の解放とか、
本当の自己の追求とか、
よくわかったようで、
よくはわからない悩みに明け暮れてた、
あの時期、あの時間、あの辛さは、
いったい、なんだったのかしら?

通過儀礼として
あの難問?に取り組むのは、
仕方なかったのでしょうか?
それとも、
無用な時間だったのか?

今となっては、
当時の私みたいな人物に出会うと、
なんとか悩みに乗ってあげたくなる。

そんな「自我の解放」とかいう嘆きは、
忘れた頃に楽に解放されますから。
自我とか自己とかと、
真正面から相手にしているあいだは
いつになっても、
自意識にしばりつけられ、
生き辛いだけですから。

とはいえ、
青年青女は、
悩むのが仕事なのかもしれない。
赤ちゃんが泣くのが仕事のように。

あの時期の自意識との戦いは、
しなくてはならないものなのか?

少なくとも、
私みたいな凡人には、
通過儀礼として、
通過する必要があったんでしょう。

「自分とは何か?」なんて 
真剣に問う機会なんて、
まあ、青春時代しかないのだとしたら、
まあ、その問いかけを
突きつめたい人は、
突きつめるしかないのでしょう。

そうして、
そんな人は、優れた作家や研究者に
なる可能性もありますね。
ならない可能性もまたあるように。

ただ、これだけは言えます。
10代20代に悩んだことは、
歳をとっていくなら、
知らないうちに溶けて無くなっている。

自分とは何か?
そんな問いかけにこだわる人は
そう問う時間が充実してると
感じてしまうからなんですよね。
楽しい時間なんですよね。
真面目に深刻づらをしていても、
楽しくなければ、誰がそんな修業を
何年も続けていくでしょうか?

「私とは何か?」問うことが
まるで娯楽であり、
アミューズメントである人だけが
良き心理学者になるのかもしれない。

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