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【読書】100%完璧な読書とは、自らの輪郭があやふやになること?

読者の輪郭が崩れる時。

時々、本を読んでいて、
余りに心に染みいるので、
こちら、つまり読者の私の
輪郭が溶けだしてしまう時がある。

とりわけ、そうなりやすいのは、
私の場合、小林秀雄を読んでいて、
気持ちが充溢してきて、
気がついたら
小林秀雄の名調子がこちらに
乗り移っていく時があるんです。 

私と小林秀雄の境の
ボーダーは
グニャリグニャリと溶け、崩され、
私の輪郭は失われ、
作者に侵入されていく。

それは
100%理想的な完璧な
読書ではないでしょうか。

逆にいえば、
自分の輪郭が溶けないまま、 
本来の自我がまだ崩されないのなら、
それは、
完璧な読書ではない、
と私は思ってしまいます。

つまり、余りうまく読書が
できていない時は、
たいてい、私の自我の輪郭は
相変わらず固くキープされている。

ただし、人間はそういつも
自分の輪郭を失ったり、
自我が溶け出していては、
身が持たないですね。

でも
読書なることを
完璧に遂行するなら、
自分の輪郭を失うほど、
相手、つまり作者の声が
体の奥まで染み入るでしょう。

自分の自我を安全地帯に
置いておきながらの読書なんて、
完璧な読書とはほど遠いでしょう。

それは、ただただ
知識イコール知性だと
うぬぼれている人だけだろう。
そんな人は、自我を怪しくする
作用を忘れているに違いない。

本もまた《人》である。
いや、そうあって欲しい。
それなら、時には、
自分の輪郭を怪しくする可能性に
あえて挑戦したいと願う。

「あやしうこそ、物狂ほしけれ」
と、徒然草でも書いてあった。

読書とは、一方通行ではなく、
時には、双方通行にもなる。
それが時には、
自我を溶かすチカラをくれる。

そこからまた、
新しい自我を拵えていく。

読書を通して、
人は何度も何度も、
自己を改革していけるのでしょう。
だからこそ、読書は
こんなにも面白いのでしょう。

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