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ネスカフェ製のすべり台

カレーを食べるために電車に乗る。

と、いうと「まじかよ」と訝る方と「へー」と流す方が半分ずつになるだろう。

私はもともとカレーが好きでたまらない。日本生まれ日本育ちだし、親族にインド人もいないけれど、なぜだか、いつからか、カレーの虜なのだ。ガラムマサラやらクミンやら、ターメリックやらコリアンダーやらをごっちゃり混ぜて、寸胴で煮詰めているだけで、どうしてあんな香りになるのだろう。

「スパイシー」という言葉では語れない。甘みや苦味も確かにあり、それでいて少しヒネたあの匂い。古びた地方市場を脱力しながらふらふらと歩くバガボンド的な雰囲気だ。もしくは戦隊モノのアニメーションで現れる、味方でも敵でもないトリックスター。シュリケンジャーでいえばケインコスギのポジション。あの、何をしでかすか分からない感覚。それがカレーにはある。

「カレーを食べる」。そう決めたとき、どこからともなくシナモンの香りがふわ〜っと漂ってきた。近くにカレーがないのにも関わらずだ。もう、なんか頭と身体がおかしくなっちゃってるのである。それすら幸福に感じる。

さてと、身支度を整えて駅へ向かう。目当てのカレーがあるのは、専門店ではなく喫茶店だ。これは私の持論だが、コーヒー豆の焙煎とカレーの粘性は比例する。深ければ強い。浅ければ弱い。目当ての店は、とても深煎りのマンデリンを使っており、やはりカレーも重々しくて、どしゃっとしたものなのだ。

駅に着いてピピッと改札を通る。駅員が帽子を目深に被りなおして「おはようございます」と言った。私は「おはようございます」と応える。ホームまで歩くと120キロはあろうか、大男がぴったりした白い全身タイツを着てあん馬をしていた。4番ホームでグルングルン回る。私はあん馬の軋む音を聞きながら、後方のベンチに腰掛けた。男は軽やかに舞う。あんばが軋む。

さっきの駅員が小走りでホームにやってきて、男に声を掛けた。男はスタッと着地して、あんばをホームの内側に向けて押す。駅員は笑顔でお辞儀をして去っていった。どうやらあんばの土台が黄色い線にかかっていたようだ。

男はポケットからロージンを取り出して、ポンポンと両手に粉を付けてから、またあんばをはじめる。てれれれんてれれん、と音が鳴って、電車が到着したので、男の隣を通って、車両に乗り込む。すれ違う瞬間、回転している男と少し目が合ったので、互いに会釈をした。私は小さな声で「おはようございます」と言ったが、男は無言だった。

電車は空いており、悠々と座れた。なんとなくスマホでメールをチェックしていると、隣に腰掛けている若い女性がこちらを見て口を手で押さえ、「もしかして……あの、違ってたらごめんなさい。臀部壊死太郎さんですか?」と言った。私は臀部壊死太郎ではないので「違いますよ」と答える。女は「やっぱり! 違うと思ったんですよ! あの……もしよかったら、サインください」と言い、カバンから手帳を取り出して1枚破ってからこちらに手渡した。

私はジャケットの内ポケットからサインペンを取り出して「臀部壊死太郎ではない」と書く。女は「うれしい! ありがとうございます! あの、もしよければ写真も……」と言いながら私にスマホを手渡した。電車のシートをバックに女のピンショットを撮る。「ありがとうございます!」、女は満面の笑みでスマホを受け取った。

ちょうど目的の駅に着いたので、女に別れを告げて出る。2つ隣の3番ホームで、さっきのアンバの男が座り込んで将棋を指していた。相手がいないので、おそらく詰将棋だろう。近づいて見てみると、駒ではなく甘海老を並べている。ふと目が合ったので会釈をして、駅を出ることにした。

改札をくぐると、あまりに晴れていた。ほとんど光線のような陽射しがパパパーっと目を刺す。あまりの眩しさに目をつぶると、そのまま開かなくなってしまったので、できる限り鼻を利かせて歩き出す。ゴン。2歩で頭を何かに打ち付けた。

これは危険だと思い、四つん這いになってごそごそ進んでいると「明後日かい?」と声がする。無視して進んでいると、また「明後日なのかい?」と聞こえたので、おそらく私に向けて発せられているのだろうと思い「違いますよ」と答えた。

「嘘でしょ。明後日でしょ」
「違いますよ」
「アナゴでマフラー作ってるのは憲法の問題よね? だから明後日だって聞いたんだけど」
「違うはずですよ」
「あらそう」
「あの、カレー屋ってどちらでしたっけ」
「その道をあと、324歩進んで。あ、四つん這いだと、6㎗ね」
「ありがとうございます」

重要な手がかりを得た私は歩き始めた。2、4、6と前足と後足を同時に動かす。数を数えながら、やるせない気持ちで歩みを進めると、280歩を超えた辺りで、カレーの匂いが漂ってくる。あの、ガラムマサラやらクミンやら、ターメリックやらコリアンダーやらをごっちゃり混ぜて、寸胴で煮詰めた、トリックスターのような香りだ。

すんすん鼻を鳴らして、犬のように走る。走ると ゴツン と壁に頭をぶつけた。立ち上がって、あたりをペタペタ触っていると、目の前に何か木枠とガラスがあることに気づく。そうだ、あのカレー屋は古いオークの建具で作られていた。そろそろっと、手を下げると案の定ドアノブがあったので、引き開けて中に入る。ぎぃっと歴史の音がして「いらっしゃいませぇ」と女の声が聞こえた。何よりあの、どうしようもなく魅力的な香りがじわぁっと鼻に入ってくる。あぁ、早く食べたいと思いながら歩く。歩く。

「こちらの席へどうぞ」
女の声のほうに歩く。しかし前が見えないのでこちらの席、が分からない。

「あの、すみません。目が見えなくて」
「あら、そうだったんですね。ごめんなさい」

冷えた手が、私の手を掴んでひっぱる。導かれるように歩く。歩く。コツコツコツ、女はヒールのある靴を履いているらしい。コツコツコツ。こちら、と言った割りには案外遠い。しかし目が見えないので、今は女に従うほかない。無心になって歩く。もう、かなり進んでいる。40メートルは歩いたのではないか。この店はこんなに奥行きが有っただろうか。だんだんと不安になってくる。

「あの、席はどこに」

尋ねても、女からの返事はない。しかし、手は引かれている。カレーの香りもする。私はただ従うだけで、歩くしかない。できる限り、頭を空にしたまま、コツコツコツを聞いていた。

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