見出し画像

【短編小説】 天国と煉獄の境界点 ー少年と子ウサギの物語ー

 生きていることとは、暖かくて柔らかいこと。死んでいることとは、冷たくて硬いこと。
 これは、幼い生寿が「生死」という概念に初めて接触した際の心の動きを仔細に描写した、言葉による細密画です。

「はい、じゃあ、プリント後ろの席に回してー」
(待っててね、ウサギさん)
「飴が何個と何個で十になるかな? 答えられる人」
(蒸し暑いだろうけど、我慢してて)
「おい生寿! 俺の揚げパンいる? あと林檎も」
(ごめんよ、僕だけ食べて)
「うわー、膝、痛かったね。はい、これでもう大丈夫」
(早く教室に戻らせてくれないかなぁ。誰かに見つかったら大変だ)
「じゃあね〜、また明日」
「じゃねっ」
 生寿は逸る気持ちを抑えきれません。
 玄関マットにランドセルを置き、なかからそっと黄色い巾着袋を取り上げます。
 恐る恐る結び目を解くと、ちゃんといました。まっ茶色な毛並みの子ウサギは、朝目にした時と全く同じ姿形のまま、そこにカチコチッと収まっています。
 鼻先を起点にして放射線状に生え揃った艷やかな毛。閉じた両まぶたを囲む白いスジ模様。ツツジの葉みたいに先の尖った両耳。縦長のお饅頭を連想させる背中や脇腹。お尻の先端についたくるみボタンのような白いしっぽ。各部位の愛くるしくも洗練された造形美は、生寿の輝く瞳を鷲掴みにして離しませんでした。
 その間、彼の蕾のような形をした頭のなかでは、自分と子ウサギを取り巻いているはずの物理空間が、太陽系を飛び越えたはるか先、優に十億光年は離れた漆黒の宇宙空間にまで、これでもかというくらいに押しやられていたのです。
 そのぺちゃんこに潰された現実感がパチンと元の形状に戻った時、
(僕はどれくらいの間、この子のことを見つめていたんだろう)
 生寿は、時間の平衡感覚をものの見事に失っていたことがなんだか空恐ろしくなりました。
 すると、なんの前触れもなく、鼻の穴から液状の生暖かい何かが滴り落ちてきて、慌てて手で抑えます。
 玄関タイルの上に数滴跳ねたのは、赤い血の雫。
〈うわっ、まただ〉
 ママにいつも持たされているティッシュをパーカーの前ポケットから取り出し、一枚引き抜いて鼻の穴に無理やり突っ込むと、今回の鼻血はすぐさま収まってくれたようでした。

 子ウサギの魂がすでに肉体から離れてしまっていることを、(朧気ではあるものの)生寿はちゃんと理解していました。
 「魂」という言葉についてはまだ知る由もありませんでしたが、なんとなくなら、生きていることと死んでいることの区別くらいはつく年頃になっているものですから。
 なので彼が、このままでは子ウサギに申し訳の立たない気がしてきて、間もなくその亡骸をどこかに埋めてあげようと思い立ったのは、ごくごく自然な成り行きだったのかもしれません。

 生寿にとって、お留守番の約束を破って飛び出した外の世界は、何もかもがいつも以上に大きく感じられました。
 特大のブロックを積み重ねてできたような住宅の数々は、重量感たっぷりに空威張りしています。
 様々な色形の、いかにも強そうな車の数々は、おのが不機嫌を見せつけるようにして、それぞれの駐車スペースからこちらを威嚇してきます。
 図が高いぞ人間ども、なんて今にも威圧してきそうな電信柱の数々は、我先にと空に向かって先端部を突き立てています。
 見慣れた景色のはずなのに、生まれて初めてひとりきりになった今の生寿には、なんだか全てが妙にデンとしいてるように感じられて、ちょっと圧倒されてしまうのでした。
 
 左手には、冷たい感触の水筒を。右手には、硬い感触のショベルを。それらを心の拠り所に、生寿は初秋の日差しのなかを歩きました。
 風に吹かれて枝から切り離された朱色の葉が、カーポートの柱に引っかかってとりとめもなく揺れています。
 視線を斜め上に向けると、綿あめみたいにご機嫌な雲をぶらさげた青空が、遠くの方で燃えている紅葉の一団と相重なって、対照色の景色を形成していました。
 四つ目の小さな窓をふたつだけ携えたグレーの住宅からは、(恐らくクッキーでも焼いているのでしょう)膨らんだ小麦の良い香りが。
 そうやって周囲の現象と少しずつ心通わせていくうちに、だんだんと胸の不安感が解消されてきた生寿は、左手に握った水筒のキャップを外し、なかのオレンジジュースを勢いよく溜飲しました。
 乾いて擦り切れてしまいそうだった喉の粘膜を、命の水分と糖分がまんべんなく潤していく手応え。その素晴らしい多幸感を誰かと共有したくなって、子ウサギにも分けてあげようと思いつきます。
 ランドセルのフラップを開けて、巾着袋の紐に触れようとした時、彼は「あ、そっか」と当たり前の摂理を悟りました。魂不在の肉体は、もう水分を摂取することができないのです。
 生寿は、潤んだ両目に手首のくぼみを強く擦りつけ、それから水筒をパーカーの前ポケットにねじ込んで、ランドセルを背負い直しました。
(待っててね。今、埋めてあげられる場所を見つけるから)

 それにしても、自然界からの借り物であるはずの大地をどこまでも覆う、罰当たりな灰色のアスファルトときたら、本当に困ったものです。四方を舐めるように見回してみても、肝心要の生きた土の姿はどこにも見当たらないのですから。
 申し訳程度の人工芝や庭の類ならあちこちに認められるのですが、それらはどれもよその家の所有物なので、侵入して一部を掘り起こすことは、当然のことながら許されるはずがありません。
 次第に気が短くなってきた生寿は、車道と歩道の仲を取り持つ縁石のつけ根に十本指を思い切りめり込ませ、力いっぱい引き剥がしてやりたい衝動に駆られました。
 それほどまでに、どれだけ歩いても、どこを見渡しても、黒々とした地球の生肌は、どこにも見つけられないのです。
 
 無益とも思える探索を根気強く続けていくうち、次第にふくらはぎが痛み始めた生寿は、バス停前のベンチに腰掛けました。
 と、そのタイミングであることを思い出します。
(そういえば、ここからもっと進んだところに、確か小さな公園があったはずだ)
 これ以上ひとりきりで家から離れていくのは心細くもあり、また恐ろしくもあったのですが、彼は勇気を振り絞ってベンチからお尻を引き剥がし、再び歩き始めました。
 真新しい住宅街の景色を突っ切るようにして、どんどん先へ進んでいきます。

 やがて、ちょっとした河川の幅くらいはある広い八車線道路にぶつかると、そこを挟んだ向かい側に、目的の小さな公園が見えました。
 公園の敷地と歩道の境目には、大型犬くらいの大きさの岩々が横一列に並べられています。それらはまるで、敷地内の神聖さを保つ結界として機能しているように生寿には感じられました。
 ゴミひとつ落ちていないまっさらな芝生の真ん中には、小川のような形の散歩道が一本通っていて、透き通った日光が、そよ風に吹かれた木々の紅葉を白く照らしています。
 控えめに設置された真新しい円形遊具と、それを優しく見下ろす守護天使みたいな鉄塔も、なんだかとっても良い塩梅。
 どの部分を切り取っても完璧そのもので、誇張でもなんでもなく、生寿にとって、その公園は天国と見紛うほど清らかな場所に思えたのです。
(ここなら子ウサギさんも喜んでくれるはずだ)

「ズオーーーォォン!!」
 その時、彼の身長よりも大きな黒いタイヤを携えたトラックが、前方の車線を物凄い勢いで走り抜けていきました。まだアスファルトの張られていない真新しい基盤から、嵐みたいな砂塵が巻き上がります。引き返すには十分すぎるほどの迫力です。それでも、
(逃げ出すだなんて絶対にダメだ)
 と、生真面目な彼は自らを叱咤激励します。
 このアスファルトの河川を渡りきって対岸の天国にたどり着かなければ、可哀想な子ウサギに申し訳が立たないと健気にも考えているのです。
 意を決した生寿は、両親に教わったことをよくよく思い出して、周囲を丹念に見回しました。しかし、横断歩道や歩道橋は、残念なことにどこにも見当たりません。
 仕方なしに、大げさな挙動でまずは右を見て、次に左を見て、もう一度右を見て車が来ないことを念入りに確認すると、恐る恐る最初の一歩を踏み出します。
 八車線道路の中央分離帯まで足早に移動した生寿でしたが、目の前を時折走る車に気圧され、そのままその場にしゃがみ込んでしまいました。
 足首に触れてくる硬い雑草が、チクチクとしたちょっかいをかけてきます。
 トドメを刺してやらんとばかりに、背後の車線を切り裂いていったのは、擦り切れるような甲高いエンジン音を響かせた悪人相の車。
 これが決定打となって、もうすっかり縮み上がってしまった生寿は、
「ここでいいかな……」
 と、自分自身を納得させるような調子で小さくつぶやきました。
(だいぶ硬そうだけど、ここの地面も土には違いないし、なんとか掘り起こして子ウサギを埋めてあげよう)
 そんな内容のことを考えて右手に意識を向けると、さっきまでは確かに握っていたはずのショベルが、スルリと抜け落ちてしまったかのように消えています。
 慌てて辺りを見回わすと、今しがた立っていた路肩の表面を突き破るようにして生えたセイヨウタンポポの群生上に、大切なショベルがポツンと落ちているではありませんか。
 距離にして十メートル弱。渡ったばかりの車線を駆け足で引き返し、ショベルを拾い上げた生寿は、そこでどういうわけかセイヨウタンポポのしたたかさに心惹かれ、その小さな花弁にしばしの間見入っていました。

 ふと正気に戻り、中央分離帯へ戻ろうと振り返ったその瞬間、
「パーーーーーンッ!!」
 怪鳥の叫びを数十匹分は凝縮させたかのようなクラクションが鳴り響き、反射的に硬直した彼のほんの目と鼻の先を、大人の背丈ほどはあろうかという、それはそれは巨大なタイヤが物凄い速度で横切っていきました。
 途方もない風圧と大量の排気ガスを撒き散らして去っていくトラックの嘶きが、いつまでも耳について離れません。それどころか、その轟音は、彼の鼓膜の内側でますます増大していきます。
 背骨を曲げ、指先まで固まってしまった生寿が頭蓋で直に聞いていたのは、生命維持欲求の緊急警報、すなわち、自らの心臓から押し出される連続的な鼓動音でした。
 暴れ狂う左胸に両拳を押し当て、左右を何度も確認して、一目散に駆けて八車線道路の反対側へ。それから公園の入り口に駆け寄り、そびえ立つケヤキの木の幹にもたれかかります。
 それは、生か死か、ふたつにひとつの分岐路でした。
 どちらに進むのも五分五分の確率だったとするならば、今朝、校庭の飼育小屋で静かに息を引き取った子ウサギと、今、動悸に顔をしかめている自分の命運を分けた要因は、一体なんだったのだろう。そんなことを考えずにいられませんでした。
 この時生寿は、生まれて初めて死神の黒装束に触れたのです。

 呼吸の存在感を十二分に確かめた後、徐々に、少しずつ、ゆっくりと現実世界へ意識を着陸させていく過程で、この公園にやってきた当初の目的を思い出したらしい生寿。
 ランドセルのショルダーストラップを両肩から外し、フラップを開けて、子ウサギの亡骸が収められた巾着袋に手を伸ばします。
 妙に柔らかく、だけどゴツゴツとした亡骸のリアルな感触を左手の平で感じながら、右手の指先で器用に巾着袋の口を広げた彼は、今日何度となくうっとりとした心持ちで鑑賞したはずの小さく茶色い背中を目にした瞬間、突拍子もない悪寒に襲われました。
「うわっ!」
 思わずケヤキの根本に袋を放り投げると、亡骸の穏やかな曲線をそっくりそのままトレースした布製の黄色い棺は、真っ赤な落ち葉の絨毯上に音もなく落下しました。
 気持ち悪い、ともちょっと違う。恐ろしい、ともちょっと違う。痛ましい、ともちょっと違う。おぞましい、ともちょっと違う。不気味、ともちょっと違う。
 強いていうなら、これら全てをぐちゃ混ぜにして大雑把に練り合わせたような、掴みどころのない心の舌触り。
 死神の黒装束に一度触れてしまった生寿には、子ウサギを埋葬することはおろか、その亡骸に再び触れることすら、さらには直視することさえも、気持ち悪くて、恐ろしくて、痛ましくて、おぞましくて、不気味で、到底できやしなかったのです。
 振り返り、振り返り、黄色い棺に繰り返し別れを告げながら、強烈な罪の意識に心を痛めつつ、彼は公園を後にしました。

 今や泥のような夕焼けをかぶった辺り一面は、血の赤に染まり輝いています。
 公園の景色、八車線道路、中央分離帯、電信柱、車、住宅街、そして、生寿の脈打つ両手と手首、さらには腕。何もかもが、熟れきった林檎のように真っ赤です。
(そうか……。生きてるのは、進んでるってこと。だから柔らかくて温かいのか。死んでるのは、止まってるってこと。だから冷たくて硬いんだ)
 生寿の瞳から少しだけ失われた輝きは、たった今彼の体内で発生した精神的変化を如実に物語っていました。
 揺れ動く、堕天使の光冠にも似た瞳の奥の小さな瞳孔。そこに映し出されている事後の世界は、これまでとは全く異なる、真紅の煉獄へと変容していたのです。 

この記事が参加している募集

私の作品紹介

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?