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私たち覚醒者の目標は現実世界の変換です

 映画『地獄の黙示録』を観た。
 ひとことで言ってしまうと、この映画は、かつてのベトナム戦争を舞台に、戦争(戦闘・戦場)の狂気を描き出している。狂気に対する概念として、一貫して理性(理性的であること)が表現されており、映画の中で、その務めは、ひとえに主人公の兵士に託されている。
 描かれている狂気には、あのベトナムでの戦争(戦闘・戦場)という背景から、充分に同情できる余地があるのだが、ほとんど振れることなく理性的であり続ける主人公の兵士によって、最終的には断罪される。私たちが存在する秩序において、狂気が許可・承認されることは決してなく、飽くまでも理性が支配すると、この映画は結論づけて終わる。
 付け加えると、映画の中で、狂気は、襲いかかってくる強い恐怖(”地獄の恐怖”)を無力化するため、その恐怖(恐怖心)と自己の存在や意識とを一体と成す試みの副産物として描かれている。
 そもそも、アメリカ兵にとって、あのベトナムでの戦争(戦闘・戦場)には既に目的が失われており、何のための戦いなのか分からなくなっているという不条理が、狂気の狂気性を、一層、高めている。

 翻って、現在、今このとき、私たちの存在する現実世界。
 ひとことで言ってしまうと、既に、この現実世界には狂気が蔓延っている。
 真実・真相に触れ、理性を保持し、理性的に正しいことを主張したり行なったりしている人びとが、変な人、異常な考えを持つ人、間違っている人、犯罪人として扱われ、弾圧されている。嘘・まやかしが本当のこととされ、正しくない方向へ、間違った判断へと、多くの人びとが巧みに誘導され、悲惨な目に遭っている。
 狂気が正義であり、理性(理性的であること)が異端視・異常視されるようになって久しい。もう、それが当たり前になりつつある。現実世界そのものが、戦争(戦闘・戦場)であるかのように、私は感じる。政府=統治者が国民の一部に残虐な弾圧を加え続けてきた事実は不問とされ隠蔽されるのに、不当に弾圧され続けている人びとを解放するための戦いが非難され、制裁を受けている。その上、狂気を基礎に、本来あって然るべき、この世界の真っ当な有りようがひっくり返され、逆さまの概念が統治者によって公然と推し進められようとしている。
 恐ろしい。これこそが、まさに”地獄の恐怖”だ。

 この現実世界で、襲いかかってくる”地獄の恐怖”を無力化するには、超越するしかない。
 いくら理性的であり続けようとしても、理性(理性的であること)自体が異端視・異常視され、弾圧を受けているのだ。逆さまの概念が支配的となり、真っ当な主張をいくらしたところで、全く相手にされないどころか、踏み潰される世の中になってしまったのである。
 もはや、理性で争うことは無益である。
 残された手段は、ひとえに超越を図ることしかない。

 争わない。
 意見を述べ、聞く耳を持っている人には、さらに語りかけよう。まだ、理性(理性的であること)が浸透する余地がある。できる限り、連帯を試みよう。しかし、話が合わないと感じたら、もう意見を述べず、その場を離れよう。
 争わないのだ。
 同じ位相=意想に達した覚醒者の連帯だけを求めて、ひたすら前へ進もう。留まって、そこで争っていても、何の進展も期待できない。むしろ、争いを避けなければならない。
 こうした積み重ねが、超越をもたらす。

 覚醒者は連帯し、超越する。潜在意識のネットワークが構築される。
 同じ位相=意想に達した覚醒者の集合意識(潜在意識のネットワーク)が、現実世界を変換する。

 私たちの目標は、現実世界の変換である。


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