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謝礼問題

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謝礼問題とは、植芝盛平と武田惣角のそれぞれの後継者たちの反目の原因となっている金銭問題のことです。盛平は惣角を大本教本部に招聘し初めて江戸柳生系合気柔術の指導を受けました。この時… もっと読む
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謝礼問題5

謝礼問題5

昭和6(1931)年ついに盛平は惣角に捕まりました。惣角のその後の対応を考えると、盛平は次のように弁明したと考えられます。①大本教への義理から入門料を徴収する訳にはいかなかった、②約束の入門料を支払うために陸海軍関係者に指導する必要があった・・・、惣角は根が正直な人物で、盛平に期待するところも大だった(久琢磨にはまだ出会ってない)ことから、虚偽報告を故に破門することなく、盛平に疑義をもちながらも更

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謝礼問題6

謝礼問題6

(承前)植芝先生は代理教授(師範にあらず惣角の代理として)を許され、一人教授する場合入門料として3円惣角に納入する規定となっていたが数万人の門人があると宣伝しておりながら入門料を納めないので惣角が要求したことがあり、その時には門人をとっておらぬとか、無料で教えているとか言って、さらに惣角は金に汚い人であると逆宣伝しておった訳です。
その他いろいろあり惣角門人某先生も植芝先生の不実を非難されたことも

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謝礼問題4

謝礼問題4

ところが、盛平はこの約束を破ったのです。
大正14(1925)年から竹下勇海軍大将ら海軍関係者からの要請で何度か上京し、関係各所で指導していた盛平は、昭和2(1927)年には大本教から離れ武道家として東京に進出したのです。

惣角からは入門者1人につき10円の謝礼を取るよう言われていましたが、生活の面倒をみてもらっていた大本教の一般信者からは謝礼を取りにくかったことは想像に難くないし、東京で指導し

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謝礼問題3

謝礼問題3

ところで、青年武芸者であった盛平(当時39歳)を有名にしたのは王仁三郎の指導と後援によるものでした。王仁三郎が武道導入に熱心であったのは、護身術が必要であったという現実的な理由の他に、大本教の信者に対し植芝の武道が大本の神が降臨してもたらされた神秘の武術というコンセプトで、宗教と抱き合わせの普及をもくろんでいたからです。王仁三郎は日本の古い宗教と武道に密接な関係があることを知っていてこれを利用しよ

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謝礼問題2

謝礼問題2

ところが、盛平は武道家としての実力はあったものの、指導者としては教えられる技の数も少なく、生徒もそのほとんどが基礎的な武術の心得もなく、また、中高年も多かったことから、困って王仁三郎と図り惣角を招聘することとしたのです。

綾部での惣角の立場は微妙なものだったようです。信者には盛平の師であることは周知されていたようですが、招聘の本当の目的である「盛平に技をマスターさせるためだけに呼んだ」ことは、信

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謝礼問題1

謝礼問題1

これは植芝盛平と武田惣角のそれぞれの後継者たちの反目の原因となっている金銭問題のことです。
ことの発端は、大正11(1922)年4月植芝盛平が武田惣角を京都府綾部の大本教本部に呼んで合気柔術の指導を受けた際の謝礼の行方にあります。

当時の大本教文献によると惣角に支払われた謝礼金は4~9月までの半年間で4,000円(≑1,600万円、小学校教員の初任給を基にすると1円は現在の4,000円の価値(三

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