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束縛されるくらいなら、愛されないほうがまだマシ


なんだか久々にいい小説を読んだなあという気になった。
というよか、なんだか懐かしい気持ちが蘇ってきた。
自分も昔はこんなふうに尖ってたなあ、当時を思い出したりした。
あなたは自分よりも恵まれてるじゃないか、そんなことで不幸だなんてよく言えたもんだね、と主人公のように不幸自慢で勝とうとする自分がいた。
でも、不幸で勝ったところで何も嬉しくない。
他人の幸福と比べるよりも、自分はどうすれば幸福になるんだろう、と考えることのほうがよほど楽しいし、有益だと思うのだ。
それにしても、この小説は心に響くような言葉が多くて、意外と名言にあふれているんじゃないかと感じる。

親というものは偉大であり、同時に鬱陶しくもある。
親は子供が可愛くて仕方がないし、いつまで経っても子供だという認識がこびりつく。
もちろんすべての親が子供に優しいわけではないだろうし、すべての親が子離れできないわけでもない。
ただ一般的に、そういう親が多いんだろう、という話で。
特に一人っ子の子供は、親からの愛情や関心を一心に受けるため、過保護だったり過干渉な親も多いのではないか。
「すべては子供のためを思って」やっていることもあるだろう。
でも、それは本当に子供のためを思ってだろうか?
知らないうちに、自分のため、にすり替わってないだろうか。
こんな子供じゃ世間に顔向けできない。
それはこんな子供を育てた親として、世間に顔向けできない、という意味が含まれていないだろうか。
まあつまり、子供のため=自分のためなんじゃないですか? ということ。
自分の都合のいいように子供を利用して、子供のことなんて本気で考えていない親、それがつまり「毒親」って奴じゃないだろうか。

何でも子供にやらせて、家政婦のように扱って、稼いできた金を徴収し、子供の金を勝手に使い込む親。
それでも子供には「愛してる」とささやいて、甘い言葉で安心させようとする。
親は自分のことを愛している、それだけを心の支えとして頑張り続ける。
たとえ現状は親のために生きているように感じていたとしても、自分は愛されている、自分をここまで育ててくれた恩義がある、裏切ることはできない、と自分に言い聞かせる。
親は子供のことを裏切っていたとしても。
「あなたのためを思って」という言葉を免罪符として、子供の生活や人生にまで口出ししてくる。
酷いときは生きるために仕方なく、という究極の理由で子供を自分の思い通りに動かそうとする親もいる。
「子供のため」という言葉の裏には「自分のため」という理由が隠れている。
本当に子供のためを思うのなら、子供の人生を歩ませるべきだ。
血がつながっているからとはいえ、子供は自分のおもちゃでも道具でもない。
血がつながってても他人は他人なのだ。
子供には子供の人生がある。
その人の生活がある。
親といえども、人の生活をいじくり回したり強制させる権利はない。

という正論を振りかざしたところで、毒親は自分のことを毒親と思っていないので、まさか自分が「毒親」だとは死んでも思わないだろう。
自分のことを客観的に見れる人間は、自分が子供に無理を敷いていないか冷静に見れるだろう。
毒親は認識できないからこそ毒なんだろうなと思ったり。
「愛している」という言葉は、すべてを許せる免罪符じゃない、みたいなセリフがあったけれど、まさしくそのとおりだと思う。
愛しているのなら何をやってもいいのか、愛してるといえば心が通じるとでも思っているのか。
愛している、大切にされていると自分に思い込ませることでなんとか食いしばろうとするのは、健全な関係だろうか。

人間同士の関係は難しい。
複雑化する世界でこれだという正解はない。
ただ、自分がどう思いどうしたいか、誰とどんな場所にいたかなど、自分の気持に嘘をつかないようにしたい。
その上で他人と同折り合いをつけるか、ここまでは許せるけどここからは許せない、というラインを決めて付き合うようにする。
自分を受け入れてくれる環境や人やコミュニティの存在が一つでも見つかれば、世界はより生きやすくなるだろう。

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