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◯◯人種など存在しない

この世界に何かに由来した人種などと言うものは存在しない、もしそれを主張するのならばそれは思い込みの中に過ぎない。
民族とか人種はすでに多くの混血を重ねている、また宗教的な理由による人種定義も成立しない。
私は重ねて言っているが聖書が神によって記述された事を否定する。神の意思が働いて人が書いたものではあるかも知れないが私はそれが神の絶対的ルールだとする事に関してはっきりと否定したい。
そもそも何かにルールを与えて定義付すれば必ず矛盾が生まれる。いかに神が万能であっても自らが作った世界の理を自ら破壊する事はしない。
神がかつて約束したユダヤ人に対する約束は要するにその時代や状況において神を信仰していた人たちに対する精神的保護に他ならない。
旧約聖書に書かれてる事を嘘だとは言わないがそれは現代生きる人の世界の何かのルールや根拠にはならない。またクリスチャンにも同様な事が言える。
キリスト教やユダヤ教またイスラム教を信じているからと言って神の特別になるわけではない。またそれを望んではならない。
信仰に関わらず私たちは神の恩恵にあずかれる。ただそれは信仰者である恩恵と実社会において与えられる恩恵は別であって私たちがある種の信仰を持たないと得られない信仰的な恩恵はある。
また、信仰は贈り物であって誰もが持っているものでもないし、またそれを強要する事もあってはならない。
死後の世界について私は知らない。知らない事は答えられないが科学的には脳や生物としての機能停止は私は死ぬ。そしてどこか別の世界に行く事があるのかそれとも何もないのか私は知らない。
しかし何もない虚無になるとしたとしても私たちは世界の中に溶け込んでいくのである。
それはやはり神の世界の一部になり天国に行く事と私は変わらないと思うし、また生きながら地獄に居ることも生きながら天国にいるものもある。
ただその生きている時の感情がとても大切であると私はいいたい、その感情こそが私たちのすべててあるとすら私は思う。だから私たちは幸福であるために努力すべきだと私は信じている。
信仰者であるなしに関わらずこの世界に意味がないと自ら定義付けした者は哀れである。もはや快楽でしか、いや快楽ですらもう無意味な世界の中で虚しさしか与えてはくれない。
一時の気持ち良さとの引き換えに陰鬱とした苦しみを得ることになる。愛や他者への親切が心が無意味ではない事は他ならぬあなたが理解してるはずである。
欲望も人生の一部であることは否定しない、しかし欲望が人生のすべてではない。私たちは多くの事についてバランス感覚をもって自己抑制し、時に遊び、時に生真面目に生きる。それが私たちが信仰のある無しに関わらず幸福を得るための手段である。


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