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静御前という名の虚構【史料で見る鎌倉殿の13人】

静御前は非実在白拍子だったんだよ!!

な、なんだってー!?

という話ではありません

静御前という名の白拍子を利用して、吾妻鏡編纂者が何を表現したかったのかを邪推する話です。

虚構というとちょっと大げさですが、静御前については吾妻鏡ぐらいしか史料がないため、扱いがとても難しいのです。

特に、鎌倉に連れてこられ、鶴岡八幡宮に参拝した頼朝と政子の前で舞をし、その後の一連の話などは、どこまで信じていいのかよくわかりません。

そうは言っても吾妻鏡編纂者がわざわざ採録したエピソードなわけでして、それに倣って取り上げてみようかな、という次第です。

鎌倉に入るまでの静の足取り

鎌倉に至るまでの静の足取りを追ってみましょう。

静の記録はほとんどが吾妻鏡ですが、延慶本・平家物語などにも少しだけ載っていまして、その一つが、土佐房昌俊に義経が京で襲撃される場面です。鎌倉殿の13人はこの記述を元ネタにドラマにしていましたね。

判官はそのころ、礒禅師が娘、静と云ふ白拍子を思はれけり。判官、静に宣ひけるは、「何なる事の有らむずるやらむ、心騒ぎのするぞとよ。昌俊めが夜打ちに寄すと覚ゆるぞ」。静、「大路は塵灰にけたてられて、武者にて候ふ也。是より仰せ付けられざらむには、大番の者共、是程さわぎあふべしとも覚えず。一定、昼の起請法師めがし態にてぞ候ふらむ」なむどぞ云ひける。
延慶本・平家物語 土佐房昌俊判官の許へ寄する事 抜粋

延慶本では土佐房のシーンと吉野での別れのシーンぐらいしかエピソードが無く、あまり静には触れられていなかったりします。

土佐房の襲撃は、吾妻鏡では文治元年10月17日です。

この後は吾妻鏡で見ていきます。

文治元年(1185)11月6日、義経が西海に落ち延びようとして船に乗るのですが、暴風高波で船が大破して断念します。義経の周りには4人しかいなくなったとありますが、その1人が静になります。

11月17日、吉野山の衆徒に見つかり捕獲され、12月8日には吉野から京の北条時政のもとに送られます。

十七日 丙申 予州、籠大和国吉野山之由、風聞之間、執行相催悪僧等、日来雖索山林、無其実之処、今夜亥剋、予州妾、静、自当山藤尾坂降、到于蔵王堂。其体、尤奇恠。衆徒等、見咎之、相具向執行坊。具問子細、静云、吾是九郎大夫判官〈今伊予守〉妾也。自大物浜、予州来此山、五箇日逗留之処、衆徒蜂起之由、依風聞、伊予守者、仮山臥之姿、逐電訖。于時、与数多金銀類於我、付雑色男等、欲送京。而彼男共取財寳、棄置于深峯雪中之間、如此迷来〈云云〉。
吾妻鏡 文治元年11月17日
八日 丁巳 吉野執行、送静於北条殿御亭。就之為捜求予州、可被発遣軍士於吉野山之由〈云云〉。
 吾妻鏡 文治元年12月8日

12月15日には鎌倉に時政の報告が来ます。16日には、静を鎌倉に召し出すようにと時政に返答します。

又被遣北条殿御返事。静者、可被召下〈云云〉。
吾妻鏡 文治元年12月16日 抜粋

文治2年に入っても時政と頼朝は書面でやり取りをしていたようで、静の処遇についての内容が、1月29日、2月13日にあったりします。

ちなみにですが、文治2年2月26日には、頼朝に息子が生まれています。常陸介藤時長娘(大進局)との間に若公が生まれたと吾妻鏡にはあります。大進局は御所の女房で、この件でことが露呈し、政子が激怒したため、出産の儀式などはすべて省略されたとあります。

文治2年3月1日には、静は鎌倉に入ります。安達新三郎の家が宿所でした。母の礒禅師を伴っていたとあります。

今日予州妾静依召自京都参著于鎌倉。北条殿所被送也。母礒禅師伴之。則為主計允沙汰、就安達新三郎宅招入之〈云云〉。
吾妻鏡 文治2年3月1日 抜粋

3月6日には平盛時、藤原俊兼が静を尋問します。義経の行方についての静の証言は、尋ねられるたびに微妙に異なっていたりで、いまいち信用できないと思われていたようです。

3月22日には再度尋問されたようですが、義経の行方は知らないとしか言わなかったとあります。子供を身ごもっていたため、出産後に帰るようにと指示があったようです。

廿二日 庚子 静女事。雖被尋問子細、不知予州在所之由、申切畢。当時所懐妊、彼子息也。産生之後、可被返遣由、有沙汰〈云云〉。
吾妻鏡 文治2年 3月22日

鶴岡八幡宮での静の舞

文治2年4月8日、静は鶴岡八幡宮で舞を披露します。

鎌倉逗留中に、頼朝から依頼があり、病気を理由に断っていたのですが、吾妻鏡によれば、政子の強い要望で実現したとあります。

鶴岡八幡宮に呼ばれてからも渋っていたのですが、頼朝の再三の要望に、仕方なく舞を披露したとあります。

然而貴命、及再三之間、憖廻白雪之袖、発黄竹之歌。左衛門尉祐経鼓。是生数代勇士之家、雖継楯戟之基、歴一臈上月之職、自携歌吹曲之故、候此役歟。畠山二郎重忠、為銅拍子。
 吾妻鏡 文治2年4月8日 抜粋

舞の際に鼓をたたいたのが工藤祐経で、銅拍子を鳴らしたのが畠山重忠とあります。銅拍子は歌舞伎ではチャッパとよばれてますね。青銅製の真ん中がくぼんだ円盤のようなものを両手に持って打ち合わせることで音を出します。「しゃーん」というか「ちゃーん」というか、高くて細い、そんな音ですね。

そのときの歌の合間に読んだ静の和歌二首が吾妻鏡に載っています。

吉野山 峯の白雪 ふみ分て、入にし人の 跡ぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くりかえし、昔を今に なによしもがな
 吾妻鏡 文治2年4月8日 抜粋

静の歌や舞は見事だったようで、見ていた人みなが感動したとあります。「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし。上下みな興感を催す」とあります。

誠是社壇之壮観、梁塵殆可動。上下皆催興感。
 吾妻鏡 文治2年4月8日 抜粋

梁塵を動かすは「魯人虞公、発声清越、歌動梁塵」からきています。前漢時代の魯の虞公という美声で知られた人がいて、虞公が歌うと梁の上の塵まで動くという故事から、素晴らしい歌声だったという意味で使われます。

要は大絶賛というわけです。

和歌の内容もすごくて、古今和歌集と伊勢物語の歌を本歌として、義経のことを思う和歌を歌います。静は頼朝の前で、義経を恋しく思い偲ぶ歌を披露したわけですね。なかなかにすごいエピソードというか、静の心意気を感じる話です。

さて、頼朝は空気が読めないのか、権力者としてのメンツのためか、静の歌に、けしからんと苦情を入れます。

二品仰云、於八幡宮宝前、施芸之時、尤可祝関東万歳之処、不憚所聞食慕反逆義経、歌別曲、奇恠〈云云〉。
吾妻鏡 文治2年4月8日 抜粋

それを政子がいさめます。

頼朝流人時代に時政につきあいを反対された話や、石橋山の話をわざわざ持ち出して、静の義経への思いは、あの時の政子の気持ちと同じだと。お気持ちを曲げて、まずは褒めてくださいと頼朝をなだめます。

御台所、被報申云、君為流人、坐豆州給之比、於吾雖有芳契。北条殿、怖時宜、潜被引籠之。而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所、亦出石橋戦場給之時、独残留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今静之心。忘予州多年之好、不恋慕者非貞女之姿。寄形外之風情、謝動中之露胆。尤可謂幽玄。抂可賞翫給〈云云〉。于時休御憤〈云云〉。小時、押出於御衣〈夘華重〉於簾中。被纒頭之〈云云〉
 吾妻鏡 文治2年4月8日 抜粋

頼朝はそれで怒りをおさめ、簾の中から衣を押し出して与えたという話です。

ぱっと見、愛する人と引き裂かれ、さらにその原因となる頼朝の前で見事な舞を見せる静と、為政者として人の情を後回しにする頼朝と、そんな静の気持ちを理解し頼朝をなだめる政子という、見事なシーンなわけですが。

酔っぱらって静を口説く梶原景茂

その後、5月14日には数人の武士が静の宿所を訪れどんちゃん騒ぎをしたときに、梶原景茂が酔って静を口説くという話が吾妻鏡に載っています。

工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通は酒を持参して静の宿所を訪れます。

彼らは宴を催し、歌って踊って楽しんだようです。先日の鶴岡八幡宮での静の舞で、鼓を叩いた工藤祐経もいますね。静の母である磯禅師も芸を披露したとあります。

十四日 辛卯 左衛門尉祐経、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々相具下若等、向静旅宿、抗酒。催宴、郢曲尽妙。静母礒禅師、又施芸〈云云〉。景茂、傾数盃、極一酔。此間通艶言於静。々頗落涙云、予州者、鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。為御家人身、争存普通女哉。予州、不牢籠者、対面于和主、猶不可有事也。况於今儀哉〈云々〉。廷尉公朝、自京都参著。所帯 院宣等也。以知家宿所、為旅舘〈云々〉。
吾妻鏡 文治2年5月14日

酒も進んだのでしょう、景茂は酩酊して静を口説いたようです。

艶という言葉は、男女間の性的な関係や雰囲気などを表す際によく使われている言葉です。艶言は、そういう意味で口説いたということなのでしょう。白拍子とはそういうものでした。

静はひどく泣いて、「義経様は頼朝様のご兄弟、私はその妾で、どうして御家人程度のものが、普通の女と同じように考えられるのでしょうか。義経様が落ちぶれなければ、あなたとこうして顔を合わせることすらなかったでしょう、ましてやこのようなことはありえないのことなのです」と、手ひどく断ったという話です。

義経を讒言した景時と、義経の妾に言い寄る景時息子の景茂。吾妻鏡編纂者は、義経に関わることについて、梶原氏をとことん悪役にします。

大姫の前で舞う静

文治2年5月27日、静は大姫の依頼で、勝長寿院で舞を披露し、褒美をもらったとあります。

廿七日 甲辰 入夜、静女、依大姫君仰、参南御堂、施芸給禄。是日来有御参籠于当寺、明日満二七日。依可退出給、及此儀〈云々〉。
吾妻鏡 文治2年5月27日

大姫は自身の境遇も含めて、何か感じるものがあったのか、静のエピソードで数回名前が出てきます。

清水冠者義高と、九郎義経。どちらも頼朝に粛清される人たちです。

由比ヶ浜の悲劇

大姫の前で舞ってから約3か月後、文治2年閏7月29日に静は子供を出産します。

男子だったことがもたらした悲劇でした。

吾妻鏡によれば、頼朝は、もともと女子だったら母に返したが、男子だったら命を絶つと決めていたとあります。政子は反対しますが、頼朝は聞かなかったとあります。

廿九日 庚戌 静産生男子、是予州息男也。依被待期、于今所被抑留帰洛也。而其父奉背関東企謀逆逐電。其子、若為女子者、早可給母、於為男子。今雖在襁褓内、争不怖畏将来哉。未熟時、断命条、可宜之由、治定。仍今日仰安達新三郎、令棄由比浦。先之新三郎御使、欲請取彼赤子。静敢不出之、纒衣抱臥、叫喚及数尅之間、安達、頻譴責。礒禅師、殊恐申、押取赤子与御使。此事御台所御愁歎、雖被宥申之、不叶〈云々〉。
吾妻鏡 文治2年 閏7月29日

頼朝は安達新三郎に命じて、赤子を由比ヶ浜に捨てさせたとあります。この話は曽我物語の八重と千鶴御前の話に似てますね。

安達清常については、延慶本・平家物語で、土佐房のエピソードのところで、足立新三郎清常という「雑色」とあります。頼朝の家人というか、名字のない身分が低い人だったようです。推測ですが、鎌倉殿の13人では善児あたりに役が割り振られそうな人ですね。

静たちが滞在していたのは、安達新三郎の家でした。

命を受けた安達新三郎は、赤子をうとけりに行くのですが、静は抵抗して渡そうとせず、衣に包んで数刻泣き叫び、安達はしきりに叱責したとあります。静の母、磯禅師が静から赤子を取り上げ新三郎に渡し、男子は由比ヶ浜に沈められます。

文治2年9月16日、静と磯禅師は京に帰ります。政子と大姫は憐れんで多くの宝物を与えたそうです。

十六日 己未 静母子給暇、帰路。御台所、并姫君、依憐愍御、多賜重宝。是為被尋問予州在所、被召下畢。而別離以後事者、不知之由申之。則雖可被返遣産生之程、所逗留也。
吾妻鏡 文治2年9月16日

その後の吾妻鏡に、静の記載はありません。

吾妻鏡編纂者の意図を邪推する

義経と頼朝の争いのなかで悪とされる梶原氏

静御前のエピソードは、義経と頼朝の争いの一環として描かれます。本筋は義経と頼朝の争いです。

吾妻鏡は、義経の平家討伐のころから、頼朝の命令を聞かない義経を記し始めます。遠征中、範頼は他の御家人の意見をよく聞くが、義経は聞かないという話を載せて、そのうえで梶原景時が頼朝に意見する書状を載せます。

鎌倉に入れなかった義経は京に戻りますが、頼朝は景時息子の梶原景季を上洛させ義経への使者とし、義経監視を命じます。病気を理由に最初は会えなかった景季ですが、数日後に義経と会うことができます。

その時の様子が、吾妻鏡 文治元年10月6日にあります。

景季は、義経は脇息にもたれた状態で自分と面会し、その様は憔悴しているようだったと報告します。

其体誠以憔悴、灸有数箇所、而試逹行家追討事之処、被報云、所労更不偽、義経之所思者、縦雖為如強窃之犯人、直欲糺行之。
吾妻鏡 文治元年10月6日 抜粋

ですが、頼朝はそれを信じず、行家と同心していて、病を偽っているのだと言います。

それを受けて景時は「最初に会わずに数日あけて会ったということは、その間に病を偽装する準備ができる。一日食事をとらず、一晩眠らなければ、その身は憔悴する」と、頼朝の意見を補強しながら同意するのです。

二品仰曰、同意行家之間、搆虚病之条、已以露顕〈云云〉。景時承之、申云、初日参之時、不遂面拝、隔一両日之後有見参。以之案事情、一日不食、一夜不眠者其身必悴。灸者雖何箇所、一瞬之程、可加之。况於暦日数乎。然者一両日中被相搆如然之事歟。有同心用意分、不可及御疑貽〈云云〉。
吾妻鏡 文治元年10月6日 抜粋

こういったことがあり、土佐房が義経討伐に派遣され、それを受けて義経が頼朝討伐の院宣を後白河から取得します。

義経は土佐房は退けますが、兵は集まらず、西海に落ち延びようとして失敗します。その後の逃避行の途中で、吉野で義経と別れたあとの静が、このようなエピソードで語られるわけです。

そのうえで、さらに景時息子の景茂と静のエピソードを載せます。まるで梶原氏を悪役に仕立てるような、そんな叙述をしています。

頼朝をいさめる政子と悲運の大姫

吾妻鏡の女性についてのエピソードは、やはり政子の話が多いのですが、静の話の中でも政子は重要な役で出てきます。

政子の政治的な活躍の多くは頼朝死後で、吾妻鏡が政子を鎌倉殿として扱うのは実朝死後になります。それを正当化するためか、政子が頼朝に意見して、ときにそれを通すエピソードを吾妻鏡は度々記載します。また、非道な行いをしようとする頼朝を政子はいさめるが、結局頼朝はそれを実行するという話もいくつか載っていたりします。

北条氏を正当化するために、あえて頼朝に意見をするエピソードを載せているのではと推測したくなります。

もう一つ、政子と頼朝の妾とのいさかいです。亀の前の件もそうですが、政子は頼朝の妾に厳しく、大進局やその息子の貞暁を鎌倉から追い出してしまいます。嫉妬深い政子を語るときに昔からよく使われるエピソードですが、出自の低い政子が正当性を担保するための、政治的な動きだったという説もあったりします。

鶴岡八幡宮での静のエピソードでも、同年の大進局出産を意識たうえで、鎌倉殿として政子が正統であることを補完するために、政子に頼朝とのなれそめを語らせたのかな、なんて邪推したくなります。

大姫に関しては、義仲の息子・清水冠者義高との悲しい別れがあり、その後の婚姻拒否や入内のごたごたなど、どこか静と重なるところがあります。吾妻鏡編纂者の意図が、なんとなく見えるような気がします。

頼朝を落とし、政子をあげる、そんな話の一つなのかなと。

と言いつつも、すべてが本当の可能性もあるわけでして、だからこそ邪推なわけですね。

吾妻鏡の筆致

吾妻鏡編纂者は、こういうことを良くします。

例えば上総介広常の記述がそうです。石橋山の戦いの後、安房に渡った頼朝は、上総介広常と千葉介常胤に使いを出します。上総介広常はすぐに招集に応じず、ことあるごとに上総介広常が遅参している事実に触れながら、千葉介常胤については、頼朝に対して忠節を誓う様をあからさまに記します。

最終的に上総介広常は梶原景時に暗殺されます。上総介広常は暗殺されてしかるべきという書き方を吾妻鏡編纂者がしているのではと疑いたくなります。

かなり先の話ですが、梶原景時は、結城朝光を二代将軍頼家に讒言することで、逆にほとんどの御家人が署名した連判状を出されてしまい没落し、鎌倉を出で京に向かう途中、駿河で戦闘になり自害します。

吾妻鏡が記すこの時の連判状のメンバーに、北条氏の名前はないのですが、景時糾弾の引き金を引いたのは阿波局(北条時政娘)の密告でして、なにがしかの関与は疑われます。

こういうエピソードがのちにあるため、頼朝への義経讒言と、それにかかわる静御前のエピソードに対しても、何かあるんじゃないかなと邪推してしまうわけです。

おわりに

吾妻鏡の静のエピソードは、読んでいてなんともいたたれまなくなる話です。読んでいて辛いです。

そのため、妄想したくなるのです。

鎌倉での静の話は、貴種に見初められなかった大多数の白拍子や傀儡女などの姿を仮託した、吾妻鏡編纂者の虚構だったのだと。

…。

実は吉野の法師に京へ送られたところで静の話は終わりだったんだよ……!!

な、なんだってー……!?

彼の大雪の中へ行くべきやうなかりければ、判官静にのたまひけるは、「いづくへもぐし奉りたけれども、かかる雪の中なれば、女房の身にては叶ふまじ。我が身も通るべしとも覚えねば、自害をせむずるなり。これよりとくとく都ヘ行くべし」とのたまひければ、静泣く泣く申しけるは、「いかに成り給はむ所までも、我が命のあらむかぎりはぐし給へ。すてられ奉りて堪へ忍ぶべしとも覚へず」とて泣きければ、「誰もさこそは思へども、かかる大雪なり。力及ばず。命あらば尋ね給へ、我も尋ねむ」とて金銀のたぐひとらせて、郎等にぐせさせて送りにけり。郎等この宝をとらむとて、打ち捨て失せにければ、吉野の蔵王堂へたどり参りたりけるを、吉野法師哀れみて京へ送りけり。
延慶本・平家物語 九郎判官都を落つる事 抜粋

良かった……鎌倉で赤ん坊を殺されちまった静なんてのはいねえのか…………。

………。

……。

…。

という、夢を見たんだ。

センチメンタル過剰な邪推でした。


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