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vol.71 中上健次「十九歳の地図」を読んで

今日は成人の日、晴れやかな二十歳の映える姿があった。スマホをかざし、グループどおし仲良くピースしていた。

1973年、当然同世代の「ぼく」がいた。この作品は、狭い共同体の中で、十九歳の「ぼく」の行き場のない焦燥と、稚拙に鬱屈した様がただただ描かれていた。

主人公は、十九歳の「ぼく」吉岡。予備校生の住み込み新聞配達員。ノートに地図を書き、配達先の気に入らない家にX印を記し、配達台帳から電話番号をアドレス帳にひかえ、憂さ晴らしというにはかなり執拗に、公衆電話からイタ電をする。次第にそのレベルは脅迫となり、さらにエスカレートしていく。

初めて中上健次を読んだ。この作品は芥川賞ノミネート作らしいけど、著作よりも著者中上健次に興味がいってしまう。世情を探りたくなる。

YouTubeに中上健次の動画があった。「君は燃えてるか 過激世代の徹底討論」に田原総一郎司会で、高橋伴明や立松和平などの全共闘世代と、1980年頃の若い世代の討論していた。とても興味深かった。若い世代のむき出しの熱を中上健次がどっしりと受け止めていた。

短編「十九歳の地図」が描かれた1973年(昭和48年)前後の出来事をみた。GNP世界第2位の経済大国でも、世情は荒れていた。1968年三億円強奪事件、1969年連続ピストル射殺事件・永山則夫、1970年よど号ハイジャック、1972年連合赤軍、あさま山荘立てこもり、1973年オイルショック、1975年完全失業率100万人突破。混沌とした時代だった。特に若い世代は、模索しながらも厭世的にならざるを得ない時代だったのかもしれない。

途中、そんな世情を思いながら、もう一度読んだ。十九歳だった「ぼく」の状態を考えた。

「危なっかしいところにいてバランスを取り損ねているサーカスの綱渡り芸人のようにふらふらし、綱がぶっつり断ち切れて、今にもめまいを感じながら取り返しのつかないところに落ちてしまいそうな状態だった。」(p92)という「ぼく」の状態の記述があった。

1965年春に上京した中上健次、早稲田予備校に籍を置きながら予備校には通わず、ジャズ喫茶に入り浸り、フーテン生活に埋没していたと、河出文庫解説にあった。その時の著者の状態は「ぼく」の状態だと思った。

もう一度、今日は成人式。画面の中で、グループどおし仲良くピースしていた女性は、受けた教育のままに、社会に出ていく「責任と自覚」を語っていた。YouTubeの討論会の若者は、感じるままに社会の疑問をぶつけていた。「十九歳の地図」は、世間の目を気にすることもなく、気のおもむくままに共同体を脅していた。どれも切り取られたシーンだけど、思考の違いが面白いと思った。

尾崎豊は「十七歳の地図」で、浅川マキは「裏窓」で、大人を斜に捉えながら、自分の無力感にささくれ立っていた。今、新成人たちは、大人の側の本気度のなさを見抜いていて、しょぼい未来を変えようと考え始めている。もうとっくに、大人の側が気づかなければならない時代なのだ。

上っ面の事象だけで、ちょっとそんなことまで考えてしまった。

おわり


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